赤の妄執







 悲壮な顔で〈杏子〉が叫ぶ。

「だったら……どうして今まで黙っていたんですか!」
「黙っていたっていうか、言おうとしたら彼が来たんだよ。で、いろいろ察してしまった」
「察したなら、こんなふうに暴かなくても、こんな、酷い……」

 まるで生きた人のように、杏子が震えた。秋寅以外の誰か、たとえば湖藍などは相手が思念であると分かっていても酷く心を揺さぶられてしまうが――

「酷い?」

 秋寅は――生きた人の感情にさえ滅多に共感することのないこの兄弟子は、ほんの少し眉をひそめただけだった。

「心外だよ。俺は逃げるようアドバイスをしたじゃない。今回は親切すぎるくらいだった」

 大仰に両腕を広げ、続ける。

「知る勇気が評価されると思ったのなら残念だったと思うよ。現実は物語より残酷だ。なにより判断力がものを言う。それとほんの少しの運要素……かな」

 そういう意味では秋寅と出会った彼女。いや、彼女の恋人が不運だったのだろう。

「こういうことになっちゃったからには最後まで付き合わせてもらうし、付き合ってもらう。思念であると自覚した、人ではないあなたに改めて選択肢を与えるつもりは――俺にはないんだ」
「師兄、なにを?」

 珍しく相手に選ばせず断言した彼に、湖藍は訊ねた。
 秋寅が答える。

「ふわふわ残しておくだけでも不健全だっていうのに、その鳥モドキみたいにしようだなんて気持ち悪すぎでしょ。俺、基本的に他人の選択には寛容なつもりだけどそこだけは譲れないよ。ま、譲る義理もないし――」
「ま、待ってくれ!」

 ようやく我に返った男が制止する。が、やはり遅い。遅すぎるのだ。
 男の言葉を聞き届けることもなく秋寅は唇に種石を片手に、言葉を紡いでいる。

「我、可なるものを可とし、不可なるものを不可と定めしものなり。遊魂、ものに触れかたちとなり、禍をなす。ゆえに我、これを不可とす」

 それこそ思念を誰の目にも見える形に抽出する呪だ。思念を思念でなくす呪だ。
 森羅万象を人の概念で可と不可に分ける。確かに存在する思念を異常なものとする。他人に選ぶ余地を与えることを信念とする彼が、その呪を使うというのはなんとも皮肉である。存在を異常なものとして固定された遊魂――思念が揺らぐ。湖藍にはっきり視えていた、広瀬杏子の姿が揺らぐ。存在を否定されて、その姿をたもてなくなったのだ。
 それでも彼女はどうにか世界にしがみつこうとしていたが、秋寅が呪を紡いだ唇で石に触れるとまるでそこへ吸い込まれるようにして消えてしまった。
 あとには赤い石だけが残る。炎のように煌めく、想珠だ。

「メリークリスマス」

 秋寅は囁くように言って、想珠を男に放り投げた。男の手が反射的にそれを受け取る。けれど事態を理解してはいないのか、彼はしきりにあたりを見回して恋人の思念を探していた。無駄だよ、と秋寅が嘆息する。

「オニーサンの恋人さん、って言い方をするのは好きじゃないな。思念。そこにあるんだから。どこって、手の中。こっちの異能者はこういうのを非人道的っていうの? 人の想いを弄ぶような行為だって嫌がるから知らないのも無理はないけど……」

 まだきょとんとしている――脳が理解を拒んでいるのかもしれない――男へ告げる。
 酷薄に。

「一度物質化した思念が元に戻ることは二度とない。杏子さんに新しい形を与えるのは無理ってこと。これを機にさ、ちゃんと前に進みなよ」

 完膚無きまでに心を折られて、男が崩れ落ちる。静寂に聖歌とは程遠い慟哭が響く。

「参ったなー。巻き込まれただけなのに、なんだか俺が悪者の雰囲気」

 悪びれもせず頭を掻く兄弟子を、湖藍は白けた瞳で見つめた。

「いつものことじゃないですか、師兄」
「小藍が冷たいのもね。まあ確かにいつものことだ」

 そう、いつものことだ。
 酷い人だと詰る気力も湧かないほどに、いつも通りだ。なにかにしがみついている誰かに救いを求められては、なにもかもを台無しにする。それが秋寅という人だ。
 秋寅は人目もはばからず嘆き続ける男には、もう目もくれなかった。

「こうやって変えようもない現実を嘆く時間と、鳥の囀りほどに短い俺のお喋り。はたしてどっちが無駄なんだろね。どっちも同じくらい不毛なのに、どうしてか前者は許されて後者は殴られる。主に身内から」

 肩を竦めて歩き出す。そんな彼の後を追いながら、湖藍は言った。無駄だと知りつつ。

「誰もが師兄のように割り切れるわけではありません」
「難儀だねえ」

 呟いて、秋寅は時計に視線を落とした。

「やれやれ、すっかり遅くなっちゃった。これじゃ辰ちゃんちは明日にした方がいいか。それこそ殴られちゃう。辰ちゃんってばさ、短気なんだよ。ものすごく」
「わたしも三条院の家へ向かうのは無理そうです」

 終電にはまだ時間があるが、流石に迷惑になりそうだ。連絡をしておいてよかったと胸をなで下ろして、湖藍は兄弟子を見上げた。

「さて、どうしましょう。師兄」
「ま、たまには趣向の違うクリスマスってのもいいんじゃない?」
「師兄、行事を祝うのはお嫌いでしょう」
「ああ、嫌いだよ。けれど親しい人と過ごすのは、嫌いじゃない」

 ね、小藍。と片目を瞑ってみせる。
 そんな彼になんと返していいのか分からずに、湖藍は曖昧に頷いた。