赤の妄執






「ネクロマンシー……」

 オカルトで言うところのいわゆる死霊魔術とは違うが、近いものはあるため通称としてそう呼ばれている。思念を用いた術の一つである。いや、異能技術というべきか。

「うわー、悪趣味」

 兄弟子は苦い顔で呟いている。そんな彼にしがみつくようにして、女が叫んだ。

「あの人です!」

 指をさす。路地の入り口に、いつの間にか人影がある。長身の男だ。見られて困るものでもないのか、顔を隠してはいなかった。歳は、恐らく秋寅よりも若い。二十代後半といったところだろう。男が顔の前で腕を折り曲げると、半機械の剥製鳥は優雅にそこへ舞い戻った。
 彼が広瀬杏子を追う不審者か。

「まあ、同業者でよかったって言うべきかな。ヤのつく人とか来られても困るし」

 兄弟子は呑気なものである。

「三輪秋寅」

 男が口を開いた。彼は兄弟子をしげしげ眺めると、唇の端を歪めてみせた。

「三輪家の不出来な長男が」

 蔑む声だ。ああ、それだけで、彼が向こうの術者でないことが分かる。一方で警戒しているのは、一族の名を怖れてのことだろう。こちらの異能者は皆そうだ。兄弟子ではなく、彼の一族を怖れる。

「師兄……」

 湖藍は思わず兄弟子を見上げた。少しは機嫌を損ねているかと思いきや、彼は相も変わらずなにも感じていないふうだった。湖藍の視線に気付いて微笑んでさえみせる。

「そんな顔しなくてもさ、今更傷付いたりしないよ。俺は」
「しかし、師兄」

 そうではない。そんなことを心配しているわけではない。恐ろしいのは、

「妹や弟のような才能がないことは事実だ。それを認めないってのはさ、時間の無駄じゃないか。まあ他人にとやかく言われるのを癪だと思ったことはあるけど、考えてみたら陰陽道を極めてなにしたいってわけでもなかったし――そうそう、選択の自由ってやつもあったしね。幸い、俺には別の素養もあった」

 それが強がりではないことだ。
 兄弟子がなにを言っているのか分からなかったのだろう、男は鼻を鳴らしてみせた。

「彼女を渡せ」
「どうして? 理由は?」
「お前たちには関係のないことだ」

 相手の返事に、秋寅は思いっきり不服そうに唇を尖らせた。

「ってのも、またベッタベタだなぁ。もっと捻ってくれないとさ、土産話にもならないでしょ。辰ちゃんにまた作り話だろって言われちゃう。兄の株大暴落。初対面だからこそ、そこのところ気遣ってくれないと困るよ」
「師兄、暴漢相手に気遣いを求めるのは無理があるかと思いますが」
「でもよく知らない相手のことを暴漢だと決めつけてかかるのも乱暴だと思うよ、小藍」
「しかし師兄。暴漢でない人は通りすがりの旅行者にいきなり攻撃を仕掛けてはこないのではないでしょうか?」
「まあ、それも確かに?」

 本当に分かっているのか怪しいところではある。小首を傾げている秋寅のことは無視して、湖藍は女の手を取った。怯えているのか兄弟子の傍から離れようとしない彼女を無理やり引き剥がして、彼らから距離を取る。

「湖藍さん?」
「師兄の傍は非常に危険ですので」

 怪訝そうな顔をする彼女に答えた、その瞬間。
 再び男が死せるハヤブサを放った。だがそのときにはもう、兄弟子も手の中の小瓶を地面に落としている。それだけの仕草だ。たったそれだけ。瓶が割れる。湖藍は鼻腔に漂う刺激臭から女を守るように厚手のコートで匂いを遮断した。秋寅は武術に優れた人ではない。動体視力も特別優れているわけではない。けれど、件のハヤブサは兄弟子に敵わない。そのことを湖藍は知っている。完全なる機械ではなく、感情――思念による生を得ている以上、彼には敵わないのだ。絶対に。

 ハヤブサに搭載された嗅覚センサーがその匂いを感知して、脳の代わりに積まれた思念へと伝える。果たしてそれはどんな幻覚を見ただろうか。燃え盛る炎の鷲に焼かれる光景か、或いは目のない蛇に飲まれる悪夢か。
 それこそが兄弟子の異能だ。ネクロマンシーと同じく、技術であると彼は言う。生きるものの感覚に――兄弟子の場合は主に嗅覚に――訴え、幻覚を見せる。普通、調香士の幻術と言えば脳の記憶野から対象の持つ過去の恐怖を引き摺りだすことがほとんどだが、彼の場合は少し違う。
(不出来な長男だなんて、とんでもない。師兄は恐ろしい人だ……)
 湖藍は唇を噛んだ。
 形のない思念を結晶化させ、調香の素材とする。新興調香術と呼ばれる研究の第一人者が師父、三条院修泉その人だった。結晶化させた思念を想珠、という。想珠を作るには呪を用いるが、その出来は術者の精神力に左右されるところが大きい。思念とは人の想いの一部であり、感情だったものである。異能者の中に思念を別の物語と結びつけて現出させる人がいるように、基本的に人の感情と結合してしまいやすい。術者が少しでも心を動かされれば、それだけで不純物が混じる。修泉は想珠研究の第一人者ではあったが純粋な想珠を作ることはできなかった。師父がそれに気づいたのは、秋寅が傍にいたからだ。
 そう。傍に三輪秋寅がいた。それこそ師父の不幸だった。
 ――秋寅はなにに感じ入ることもない男だ。それが彼の才能だ。
 その言葉のとおり、秋寅は思念に心を動かされることのない人だった。ほんの少しでさえ哀れみを感じることのない人だった。彼は思念どころか生きた人の感情にさえ左右されない人だった。どこまでも他人と自分とを線引きして、本当に割り切ってしまう。
 素質だ。意図してできることではないという意味では、類い稀な才能ではあるのだろう。
 兄弟子の作る想珠は完璧だった。なんの混じりけもない、純粋な思念の塊だった。彼のものと師父のものとを並べると、ああ残酷にもその才の違いは明らかだった。片や原石。片や磨き抜かれた宝石。見た目にそれほどの違いがあるのだ。砕いて香に混ぜたときの効果は比べるべくもない。

「鋼と亡骸を拠り所にした思念の鳥さえ恐怖させる……」

 異能者が用いる香の効能は多岐にわたるといえども、それを可能にするのは兄弟子だけだ。
 義眼にはハヤブサの感情が反映されることはなかった。アイ・センサーにもしかり。機能していない声帯が悲鳴を発することもなかったが、その瞬間それは確かに見えないなにかに襲われていたのだ。獲物を狙って一直線に向かってくるはずだった思念の鳥は鋼の翼を空中で何度か羽ばたかせて、進路を変えた。

「シロガネ? おいっ、どこへ行くんだ! シロガネ!」

 男にはなにが起こったのか分からなかったのだろう。彼方へと飛んでいくハヤブサに慌てふためく、その隙に秋寅が行くよと囁いた。湖藍も頷いて、杏子の腕を掴んだまま彼の後に続く――