赤の妄執
彼女が、広瀬杏子が巻き込まれた航空機事故の記憶だ。静かな夜の景色が阿鼻叫喚に塗り替えられていく。人気のないビルの隙間は、狭い機内に変わった。混乱に陥った人たちが操縦室に殺到する。
「これは――」
男が絶句する。半ば思念と同化して呆然としている杏子の存在も目に入らない様子で、目の前の光景に見入っている。起きろ、起きろ、起きろ、と。この場に残された彼女ではなく、過去の中で寝入っている〈彼女〉に対して譫言のように繰り返すが。
「いやあ、無理でしょ。過去は変えられないし、変えられたとてむしろ目覚めていた方が悲惨じゃない? この状況じゃさ、どんなにすぐれた異能者だってどうにもできないから」
どこまでも軽薄な声が。悪夢のように残酷な指摘が。
「杏子さんの名前は分かっていたし、旅客機のロゴも視えたからね。少し調べた。原因はトイレ内に捨てられた煙草からの出火とされたんだってね。それほど大きな機体じゃなかったせいで乗客に情報が伝わるのも早かった。そのせいで対策を取る間もなく操縦室にまで人が殺到して制御不能に。やがて墜落。生存者なし。広瀬杏子さん、あなたは帰国のため、その便に乗ってた。クリスマスの悲劇だ」
秋寅が続ける。淡々と。感情もなく。杏子は赤い粉の落ちた地面を見つめている。思念もなにかを感じることがあるのか、それとも過去の引き出しからなにかを感じた振りをしているだけなのか。やはり湖藍には分からない。女の唇が震え、そして開いた。
「わたしが乗っていた? そこに? 生存者、なし?」
目を見開いたまま静かに絶望している男の代わりに秋寅が顎を引いて肯定すると、彼女は膝から崩れるようにしてその場へ座り込んだ。視線が事故の記憶から男に、男から秋寅に移って――ぴたりと止まる。
「じゃあ、わたしは? ここにいるわたしは、なに?」
「思念。事故に遭った広瀬杏子さんが残した、ただの想い」
「そんな、嘘!」
絶叫するが、
「嘘じゃない」
秋寅はかぶりを振って否定した。
「終わりを迎えたという自覚がなかったせいかな、驚くほどはっきりしてる。そのせいで、ただでさえ共感してしまいやすい小藍はあなたが思念であることに気付かなかった。だけどさ、杏子さん――」
一度言葉を切る。
「思念への感応力が高い方じゃない俺には、透けて見えてるんだよ。ただの人には視ることもできないし、だからこそあなたは空港にいた大勢の人の中から俺たちを選んだ。いや、俺と小藍があなたを引き寄せたのかも」
「では、彼は……?」
彼女の視線が男を向いた。男も酷く切なげな顔で彼女を視ていた。視線が交わる。
「君がずっと待っていた、恋人」
あっさりと告げる声が、恋人たちの顔にこれ以上ない絶望を上塗りした。夜の寒さも気にならないほど凍り付いてしまった空気に気付いていないのか、それとも気付いていながら気にしていないだけなのか――恐らく後者であろうが――秋寅が続ける。
「恋人を蘇らせようと、その思念を必死に探していた彼。そんな彼の正体にも気付かず怯えて逃げてしまったあなた。助けを求めた先にいたのが俺だった、っていうのは不幸という他ない。或いは、これも神様の思し召しってやつかな」
最後の一言は酷く小さくて、酷く聞き取りにくかった。