赤の妄執






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 三輪秋寅は、恐ろしい人だ。ときに人間の皮を被った、別の生きもののようにも思える。上海に住む異能者は、その事実を知っている。だからこそ彼はこう呼ばれるのだ。
  “掠奇虎”――強欲な虎。なるほど、上手く名付けたものだ。彼は腕っ節が強いわけではない。三輪尊のような万能者でもない。だがその無遠慮さで選択を突きつけて、関わった人の大切なものを奪っていく。本国三輪家の人々がどれだけ有能であろうが、彼ほど強欲ではあるまいと湖藍は思うのだ。
 彼が人から奪うのは金銭か、それとも珍しい宝物か。
 そういうことも稀にある。失われたのが形あるものだけであったなら、その人は特別幸運だったと言わねばならない。何故なら大抵の場合は目に見えない、取り戻しようのないものが犠牲になるのだから。


 と。それを口にすればまた「師兄馬鹿だね、小藍は」と言われるに違いないが。
 それは肌を焼かれる熱の記憶だ。赤々とした炎と混乱、そして絶叫と絶望の記憶だ。香りとともに熱風を吸い込んだような錯覚に、湖藍は小さく咳き込んだ。じりじりと肌が焼ける。焼けていく。逃げ場はない。狭い。耳の奥には助けてくれと叫ぶ人の声が。もうなにをしても無駄だと察したのか、携帯電話を取り出してどこかへ掛けている人もいる。はたして、通話は繋がったのか。繋がったのであってほしいと湖藍は切に願う。でなければ、最期の瞬間にあまりに救われないではないか?
 記憶の持ち主は体調を崩していたのか、強い薬と酒を飲んで眠りこけていたようだ。それから一酸化炭素中毒で、早々に意識を失ったのだろう。目の前の阿鼻叫喚をどこか夢の中の出来事のように感じていることが分かる。ぐらりと体が傾く。浮遊感。墜ちる感覚。狭い機内に満ちた絶望が濃くなる。そう、機内だ。墜ちる。墜ちていく。


 墜ちる。墜ちる。墜ちる。
 師父の遺言を彼とともに裏切った、その日。湖藍の大切にしていた過去の記憶も奈落へ墜ちた。店を潰した罪悪感から養父との思い出をまともに見返すこともできなくなってしまった。幸せが詰まったアルバムはすべて無人の屋敷に置いてきた。アルバムをしまった金庫に鍵をかけ、鍵を銀行に預け――
(ああ、わたしもあのとき確かに失ったのだ。選んで、なくした)
 誰かの記憶。熱い炎の記憶が、まるで業火のように身を苛む。絶叫を、絶望を聞きながら、湖藍も静かに絶望する。胸を満たすのは他人の想いか、自分の想いか。

「丑雄くんは尊に学び陰陽道を極めた。今は本家婿殿を手伝い、星詠みとして活動していると聞く。卯月さんは市子として名高い。辰史くんは尊の後継者としてすべてにおいて秀でている。秋寅くん、君にはなにができる?」

 在りし日の師父が問う。彼を見上げる兄弟子は、どんな顔をしていただろう。分からない。思い出せない。けれど、その答えだけははっきりと記憶に残っている。

「確かに、丑雄従兄さんはとても優秀な人です。生真面目で、なんでも極めてみせる。けれど応用が利きません。卯月は市子としての才能に溢れているけれど、目端が利かないくせに実力主義を謳う大人たちを見て育ったせいで他人が大嫌いです。だから人の多い場所では生きられない。辰史は極めたものをなんでも器用にアレンジしてみせるけれど、あれでいて妙に良心的なところがある。白と黒の一線を絶対に越えられません。でも、俺は」

 酷く勿体ぶった言い方だ。尊大だと、そのときの湖藍は兄弟子に反感を抱いたものだ。

「そんな従兄さんや兄弟たちにできない、すべてのことができますよ」

 兄弟子は言った。やはり、その表情を思い出すことはできないのだ――