赤の妄執






 ***


 ビルとビルの間を風が吹き抜けていく。
 調香と調整を繰り返して、あたりはすっかり夜だった。その間、杏子は部屋でぼんやりとしていたようだ。時間という概念を失っているのかもしれない。思念になったことはないため、そのあたりの感覚は湖藍には分からないが。

「大丈夫なんですか? あの、外へ出たりして」

 後を付いてくる杏子の不安そうな顔に、少し胸が痛む。一方の兄弟子はいつも通りへらへらと笑みを浮かべていた――最初から彼女の正体に気付いていたというのだから、態度が変わるはずもないか。

「大丈夫、大丈夫。いわゆるリベンジってやつだよ」
「違うと思いますが、師兄」
「あれ?」

 首を傾げている。恐らくは素なのだろうと思うものの、或いは人の油断を誘うための振りなのではないかと疑いたくなってしまう湖藍だ。じっと見つめると、兄弟子はにっこり微笑み返してきた。

「なに、小藍。師兄があんまりにも美形だから見とれちゃった?」
「いいえ。師兄はご自分の実力と容貌の評価を逆にされた方がよろしいと思います」
「どゆこと?」
「師兄はご自分でおっしゃられるほど不出来ではありませんが、ご自分が思われているほど美形でもないという話です」

 事実を指摘しただけのつもりだったのだが、彼は微妙に傷付いた顔で胸を押さえた。

「俺、見た目にだけは自信あったのに」
「お二人は仲がよろしいんですね」

 杏子が笑う。秋寅は頷いた。

「まあ、ね。小藍とは下手をしたら本当の兄弟たちより密な時間を過ごしているから、それこそ口に出すよりは可愛がっているつもりだよ。だから、なんていうか実は面白くなかったわけだ。彼の鳥モドキが最初に小藍を狙ったってのはさ……」

 言いながら振り返る。後半の言葉は彼に向けられたものだったのだろう。寒月の下、腕に半機械半思念のハヤブサを留まらせて佇む男。

「その立ち方、やめてほしいなぁ。火雷と従兄さんそっくり」

 苦笑いする秋寅に、男が目をつり上げる。

「今度こそ彼女を返してもらうぞ、三輪秋寅!」
「勿論、返すつもりだよ。そのためにこうして待っていたわけだし?」

 言葉に、今度は杏子が眉をひそめた。

「秋寅さん? どういう……」

 話が違うとでも言いたげな彼女を遮って、秋寅が呟く。

「辰ちゃんや従兄さんはこういうやり方を嫌うんだろうけど、俺は思念を生きもののように扱うのってよくないと思うのさ。だって、想いは想いでしかないんだから」

 それは今の状況とまったく関係のない言葉のように聞こえたが――

「なにを……」

 なにかを感じ取ったのか男が後退る。そこで初めて気付いたというのは、勘が鈍いという他ない。彼も、そして杏子も今や虎の太い前脚に押さえつけられた小鳥のようなものだ。
 サングラスの奥の瞳を冷たく光らせて、秋寅は答えた。

「なにって。あんたの言った通り、俺は不出来な長男だけど……」

 相手を見下ろすその顔が歪む。自虐ではなく、恍惚と優越感に。選択肢の見えない相手を哀れんでいる。彼は獲物を前にした獣のように舌なめずりをした――実際のところはただ乾いた唇を湿らせただけだったのかもしれないが、湖藍には確かにそう見えた。

「人よりちょっと決断は早い。そう自負してる。少なくともあんたみたいに、もう終わってしまったことでぐずぐず立ち止まったりしない」
「師兄――」

 止める。止めなければ、と湖藍は思う。そう思うのは何度目か。分かっているのにいつだって遅い。ちょっと、どころではなく兄弟子の決断は早すぎる。そうと決めればなんの躊躇いもなく行動を次へと移してしまう。呆気なく。あっさりと。
 ぱちん、と乾いた音が鳴った。
 開いたアタッシュケースの中から赤い粉の入った袋を取り出すと、秋寅はそれを宙に撒いた。彼の手の中ではライターが青白い炎を立てていた。熱に炙られ、粉末香が細い煙をたなびかせる――粉末の大半は地面に落ちて、香りを発したのは僅かに過ぎなかったが。効果よりも見た目の派手さを重視したというのは兄弟子らしい話だった。
 細くたなびく。微かな香りが、冷えた夜の空気に熱を与える。