赤の妄執







 ***


 兄弟子と二人でクリスマスを過ごすというのは、思えば初めてのことだったかもしれない。クリスマスの記憶といえば養父が生きていた頃に遡るし、彼を思い出すからというわけでもないが湖藍もその日を祝うことはなんとなく避けてきた。
 二人でなにを祝うわけでもない。なにに祈るわけでもない。夜はいつも通り更けていく。いつもと違うことがあるとすれば、彼のマンションではないことと――


 熱いシャワーが心地良い。救いのない結末に冷え切った心から暖めてくれる。ような気がする。気のせいかもしれないが。染みついてしまった兄弟子の香りをどうにか消そうと、体を、髪を、念入りに洗う。それも――いつものことだ。長い長い入浴を終えると、湖藍はそのまま素肌にローブをまとった。ユニットバスの鏡に映る顔を一瞬だけ見つめる。
 途方に暮れた女の顔だ。それも、まったくのいつもどおり。溜息を零して、そっとバスルームを出る。兄弟子は疲れたのか、ベッドで寝こけている。どこにいるのか、式神の姿はない。
 湖藍は気配を殺して彼の傍へ近づいた。額から鼻梁、鼻梁から唇、顔の輪郭を視線でなぞる。優男と言われる彼だが、微笑みの消えた顔は酷く冷たく見える。昔一度だけ見た三輪一族の老人、彼の祖父もそういった顔をしていたから血なのかもしれない。唇からは穏やかな寝息が。確認してから、湖藍は彼の胸にひたりと耳を当てた。
 心音が聞こえてくる。安堵する。一方で彼が無防備にしているこの瞬間は、どうしようもない誘惑に駆られるのだ。誰もが師兄のように割り切れるわけではない。そう、割り切れない。湖藍は割り切っていない。師父の嫉妬。悔恨。無念。失われた彼の、店。亡き修泉との思い出は今も胸の内に残っている。それはふと湖藍を苛むこともあれば、容易く切り捨ててしまった兄弟子への憎しみとなって胸の内を焦がすこともある。

「師兄」

 吐息で囁いて、細い刃を首筋に当てる。このまま掻き切ってしまえば楽になれるのだろうが――ああ、けれど。やはり手が震えるのだ。何度となく試しては、何度となく思い知らされてきた。それでも試さずにはいられない。試さずにいることは師父への裏切りのようにも感じてしまうからだ。
(師父の想いを踏みにじった……そのことを許せないのなら彼を傷付ければいい。それができないのなら許せばいい。何年もどちらつかずだなんて、我ながら情けない)
 胸の内でひとしきり自分を罵って――湖藍は、今度は声に出して呻いた。

「最低な師兄。悪趣味な師兄。流石にもう起きていらっしゃるのでしょう。寝たふりをして、わたしの悩むさまを密かに笑っていらっしゃるのですか」

 彼が薄目を開ける。猫のように。細めた眸で湖藍を見つめている。

「可愛い師妹。可哀想な師妹。笑うだなんてとんでもない。これでも君にだけは悪いことをしたって気持ちはあるんだよ。いつだって、首の皮一枚くらいならあげてもいいと思ってる。寝たふりを続けるのは俺の誠意なんだって、それだけは分かってほしいな」
「誠意。まったく、どの口で。そんなもの馬鹿らしいと思っていらっしゃるくせに」
「まあ、確かに。誠意。忠誠。俺とは無縁だって言う人も多いけどねえ。なんせ猫よりも気まぐれで不誠実だってのは身内の談だ。まったく失礼な話だよ」
「いいえ。いいえ、師兄」

 彼の胸の上に頭を落として、子供のように駄々を捏ねるしかできない。兄弟子はそんな湖藍の頭を撫でると、何事もなかった顔で訊ねてきた。

「今回は三日か」
「はい、師兄。あなたの生み出すものはなんだって強すぎる。人には強い毒です」

 香も、薬も――

「俺は理不尽な才能を持つ人とは違うから、なにが丁度いいかなんて分からないんだ。他人に慈悲をかけてやるだけの余裕もない。なんでって、そりゃあ、そんなことをすれば食われてしまうことが分かりきっているからさ。ねえ、小藍。君は俺のことを過大評価しすぎているんだよ。そうだね、俺の可愛い弟だったらこう言うところだ――助手がいなけりゃ満足な調整もできないような能力が特別なはずはない――つまり、そういうことさ。だから恐がる必要なんてどこにもないし、そんなふうに悪夢を見る必要も。とはいえ悪夢は香の副作用なわけだから君の言うとおり俺のせいなんだろうけれど、そんなふうに恨み言を言わなくたってさ、いつも祓ってあげてるじゃない。おいで」

 なにより、その言葉。人を惑わせる言葉。毒でしかない言葉だ。
 けれど湖藍は耳を塞ぐこともできず、兄弟子の隣にもぐりこんだ。ぴったりと体を寄せて、それを待つ。背中に回された彼の手が小動物を撫でるように動くのを感じながら、目を瞑る。鼓膜を震わせるのは、子守歌よりも優しくて、睦言よりも甘い声だ。

「おやすみ、小藍。せめて眠っている間くらいは、君に心穏やかな時間を」

 規則正しい心音とあたたかな掌の感触に、いつしか悪夢の気配も遠ざかっていた。
 ――おやすみなさい、師父。
 せめて一矢報いてやりたくて呟くと、すぐ傍からは苦笑が聞こえてきた。小さな満足感とともに意識が闇へと落ちる。