赤の妄執






 とはいえ、彼は本当にただ相手からのアクションを待っていたわけではないだろう。三輪秋寅とはそういう人だ。本人の申告ほど優しくはない。彼の頭を占めているのはこの後の予定だけに違いないし、そうでなければ少しくらい女性の相手をしていくのも悪くはないとか、そんなところだろう。
 兄弟子は飲食店を探しながら狭い路地へと進んでいく。まるで相手を誘うように――。ややあって、声が。

「すみません」

 秋寅が立ち止まる。湖藍も足を止めて振り返った。少し離れた物陰から人が顔を覗かせている。顔の印象と声から判断すると、式が告げたとおり、女だ。なにかを警戒しているのか、慎重にあたりの様子を窺っている。

「どうしましたか?」

 秋寅がへらっと笑った。尾行を知っていたことはおくびにも出さない。やや無責任そうなところに目を瞑れば優しげではある彼の顔に、女も騙されたのだろう。ほっと胸を撫で下ろして、続けてきた。

「助けてください。追われているようなんです」
「それは――」

 またベタだね。と、唇だけを動かして兄弟子は苦笑したようだった。

「事情を訊かせていただいても?」
「はい。といっても、わたしも分からないことばかりで正直混乱しているのですが……」

 女は一度言葉を切って、ようやく建物の陰から這い出してきた。手入れの行き届いた長い髪が美しい。一見して大人しい印象を受ける人物である。その華奢な体には、どうしてか春を思わせる薄手のコートをまとっていた。あからさまに不審というわけではないが、面倒な事態を想定しておくべきではあるのだろう。

「俺は三輪秋寅。上海で商売を営んでいる者です。こっちは助手の小――いえ、湖藍。実家がこちらにあるもので、クリスマスにかこつけて小旅行ってわけです。そちらは?」
「広瀬。広瀬杏子」

 その名前を噛みしめるように、女は答えた。その様子も気にかかるところではあった。ちらりと兄弟子を見る。彼は黙って女の話に耳を傾けているが、その口元にはうっすらと笑みのようなものが浮かんでいた。師兄。声には出さず、吐息で呼ぶ。彼はそれに気付くとそっと唇に人差し指を当ててシッと短く息を漏らした。
(……なにかお考えがあるのだろうか)
 どうだろう。どちらにせよ、ろくな考えではないに違いないが。

「あの……?」

 女の訝る視線に気付いて、湖藍は兄弟子から視線を外した。相手に不信感を与えないよう、耳から入ってきていた情報をまとめてゆっくりと繰り返す。

「成程。待ち合わせをしていた恋人は来ず。代わりに妙な男に連れ去られそうになった、と。その男が我々のことを――というか師兄のことを、だと思いますが――妙に警戒していたので藁をも掴む心地でついてきた。そういうことでよろしいでしょうか?」

 はい、と女が頷く。

「彼のことも心配なんです」
「そうだねえ。もしかしたら捕まっちゃってるかもって?」
「師兄、不安を煽らないでください」

 ぴしゃりと言うと、兄弟子は肩を竦めた。

「だってさ、この状況で気を遣ったってしょうがないじゃない。彼氏と待ち合わせをしました。彼氏が来ませんでした。変な男に狙われてます。彼氏とはいまだ連絡が取れません。って――考えられることはそう多くないよ」

 たとえば、と彼が続ける。

「一つ。やばい人たちと親しくしていた彼氏がポカやらかした。二つ。彼氏がやばい人たちからお金を借りて返さずに逃げた。三つ。彼氏がやばい人たちから目を付けられるようなことをしていて、今回の旅行も実は逃亡のためだった。彼氏はすでに囚われているか、もうこの世にいない。四つ……」

 そこで言葉が途切れる。強く遮られない限りは延々と喋り続ける彼が、珍しい。

「師兄?」

 不思議に思いながら見上げる。と、

「いや、今はやめておく。そんな場合でもなさそうだからね」

 これまた珍しく真剣さを帯びた彼の声に、湖藍も遅れて気付いた。頭上に影が一つ。

「鳥?」
「いや、違うね」

 秋寅の声が答えた。ではシロと同じ式か――足元を見ると、そこにいたはずのトラ猫は路地の奥へ一目散に逃げていた。呪にしばられた式神にあるまじき行動である。唖然とする湖藍の腕を、兄弟子が強く引いた。

「師兄、なにを――」
「よそ見はよくないよ。師妹」

 それは確かに。彼の言うとおり。
 湖藍が立っていた場所を、鋭い嘴が通り過ぎていく。弾丸のような勢いで降下してきたそれは鳥の形をしていたが、よく見ると恐ろしく歪で醜悪な代物だった。元はハヤブサであったものだろうが、嘴と足の一部、そして両の翼は金属で代用されている。片方ずつに埋められたどこを見ているか分からない鳥の義眼と赤いアイ・センサーとがおぞましい印象を与えるのだった。脳天に押し込まれた銀色の細い針は微かにではあるが光っているのが見える――思念だ。まるで昆虫標本のように、思念をピンで刺し留めている。微かに聞こえる唸りは、搭載されたエンジンの駆動音だろう。