赤の妄執





一.或る日、師兄と。



 上海、浦東エリア――
 上海のシンボルである東方明珠電視塔がそびえる、中国随一の経済開発区。かつては黄浦江沿いの桟橋といくつかの工場の他には田園地帯が広がるばかりだったその地域は、今や日々変化する未来都市とまで言われるようになっている。そんな浦東の中でも外灘の景色を臨める黄浦江沿いにその店はある。一見すると小さな倉庫。実際、以前は銀行の倉庫として使われていたらしい。使われなくなってから長く放置されていたものを、三輪秋寅が買い取って店舗として改装した。入り口には小さな鳥籠型のランプと看板が取り付けられている。看板には薄い金属板から作った中国切り絵の虎と、
 ――睡蓮宮。
 そう、店の名が。

「もうすぐクリスマスだねえ、小藍」
「そうですね」

 カウンターの奥で頬杖を突いて、秋寅は眠たげに瞬きを繰り返している。そんな彼の目の前にコーヒーを置いてやりながら、湖藍は頷いた。コーヒーとサンドウィッチ。それが彼の朝食だ。一年を通じて基本的には変わらない。用意した朝食をこうして店に持ち込んで、情報誌などを読みながら食べる。行儀が悪いとは思わないではないが、湖藍も朝は兄弟子の分を作りながら済ませてしまうのでお互い様ではあるのだろう。

「今年もお帰りになりますか、師兄」

 訊ねる湖藍に、兄弟子はコーヒーカップを両手でもてあそびながらううんと唸った。

「そうだねえ。向こうに帰ってなにするってわけでもないけど、クリスマスに店を開けて厄介事を持ち込まれるのも嫌だし。あと、従兄さんも当然のように俺が帰ってくるものだと思ってるだろうからね。従兄孝行ってやつ」

 従兄さん。丹塗矢家の当主。丹塗矢丑雄。以前一度だけ写真を見せてもらったきりだが、いかにも真面目という印象であった。仲がいいとは兄弟子の談だが、実際のところはどうなのか。話を聞く限り、どうにも相手は迷惑をしているようだが――

「奥様へのお土産は?」
「どうしようかな。普通にお茶とかでもいいかもねえ。小藍、見繕ってよ」
「分かりました。冬ですし、白茶からいくつか選んでおきます」

 茶請けに月餅か白花酥(パイファス)あたりでも包んでおけばいいだろう。懇意にしている店のいくつかを思い浮かべながら、頷く。と、秋寅が――そういえば、と続けてきた。

「小藍はどうする? たまには師父の邸で過ごすかい?」

 そう言ってようやくコーヒーを一口。猫舌らしい兄弟子に合わせて用意しているというのに、彼はいつもそうして慎重に舌を付ける。それはもう、癖のようなものなのかもしれない。

「いえ――」

 湖藍が相続したため名義は代わっているが、故三条院修泉の邸のことを二人は今でも“師父の邸”と呼んでいる。浦東の高級住宅街に建てられた家で、あまりに立派すぎるため週に一度掃除をしに足を運ぶ他はほとんど使っていない。今は兄弟子のマンションが、帰る家だ。去年も聖誕節は彼のマンションで過ごした。兄弟子不在の部屋は少し快適で、少し寂しい。言えば恐らくは一緒に来るかと誘ってくれるのだろうが、それはそれでなんとなく癪ではある。

「今年はわたしも三条院の家へ顔を見せに行こうかと思います」

 考えた末に、湖藍は告げた。
 三条院の家というのは三条院本家のことで、関東を拠点とする一族である。家を継いだのは義姉、つまりは修泉の長女だ。他には他家へ婿に行った義兄もいる。二人とも湖藍とは親子ほど歳が離れているせいか、ことあるごとに不自由していることはないかと連絡を寄越してくる。そんな彼らから先日、今年の年末こそ帰ってこいと言われたばかりだった。年末ではないが、予定を前倒しにしたところで怒るような人たちではあるまい。障りがあるようなら顔だけ見せてホテルを取ってもいい――

「へえ、珍しい」
「大姐と大哥に、たまには顔を見せろと言われましたので」
「だったら日本までは一緒でいいか。東京には辰ちゃんもいるし蛟堂に泊めてもらって、次の日に新幹線で従兄さんとこへ遊びに行って――で、二泊三日。あんまり長くいても疲れるし。イブの朝にこっちを発つのが妥当かなぁ」
「はい、師兄」

 ぞんざいに放られたカードを受け取ると、湖藍は軽く一礼した。
 それが十二月、一週目の話である。


   ***


 ――それからおよそ二週間後。
 十二月二十四日。いわゆる、クリスマスイブ。
 二人が日本に着いたのは、昼をいくらか過ぎた頃だった。クリスマスイブとはいうが平日なのでうんざりするほど混んでいるというわけでもない。降機手続きを終え、別行動をする前に近くの店で昼食だけでも取って行こうかと――そんなことを話していたときだった。不意に秋寅が足を止めた。

「どうかしましたか、師兄」
「うん……」

 いつもは饒舌な兄弟子が珍しく歯切れ悪く唸っている。

「小藍」
「なんでしょう」
「何時に着くか、三条院の家には言ってある?」
「はい」
「だったら、今のうちに遅れるって連絡しておいた方がいいかも」

 それはどういうことだろう――と思いつつ、湖藍は訊き返すことで時間を無駄にしたりはしなかった。秋寅がそう言うのならばそのとおりにしておくべきなのだ。いい加減だと言われがちな彼だが、頭の回転は速い方である。これでいて鼻も利く。
 勧められたまま義姉に遅れる旨だけをメールして、湖藍は兄弟子の顔を見上げた。小さなサングラスの奥で、なにを考えているか分からない瞳が注意深くあたりの気配を探っている。

「師兄」

 小声で呼ぶと、彼は懐に手を入れて口の中で小さく呪を唱えた。キャリーバッグの陰に小さな塊が生まれる。白いトラ猫だ。三輪家に生まれた兄弟子が唯一使役することのできる式神である。秋寅はシロと名付けられたそのトラ猫に小さく目配せすると、人の多い大通りへ向かって湖藍の手を取った。

「心当たりはまったくないけど、尾行されてるねえ」
「尾行、ですか」

 言われて周囲を見回したところで、それらしい人の姿は見えないが。
 湖藍は特に狼狽することもなくその事実を受け入れた。実をいえばその手のトラブルはこれが初めてというわけでもない。むしろ兄弟子と生活するようになってから、その手のトラブルに巻き込まれることが増えた――彼は積極的に恨みを買う人ではないが、どうしてか藁をも掴みたい状況に置かれた人から縋られることが多い。そんな場面に出会すたび、助けを求める相手は選ぶべきだと言いたくなる湖藍だった。
 人混みではかえって相手の気配が分かりにくくなるのではと思ったが、相手は玄人ではないのかもしれない。或いは見失うまいと焦ったのか。今度は湖藍も視線を感じた。

「師兄、相手はどこから尾行を?」
「空港かな」
「なにが目的でしょう」
「そればっかりはね――」

 と、会話が途切れる。人の足元を縫うようにして、トラ猫が戻ってきたのだ。秋寅は少し足を止め、ひょいと猫を抱き上げた。

「どう、シロ」

 とはいえ、彼は式の言葉を解さない。
 だからいつも最低限の命令だけを組み込む。今回の場合は、恐らく二つだ。相手が男であるか、女であるか。危険があるか、ないか。トラ猫は一度伸びをすると、アーモンド型の瞳を湖藍に向けた。尾行者は女か。騒ぎもせずにいるところを見ると、差し迫った危険もないのだろう。

「こりゃ相手が声をかけてくるまで様子見かな」

 猫を放してやりながら、兄弟子が言った。

「こちらから仕掛けないのですか?」
「仕掛けないよ。俺たちには情報があまりに少ないし、相手だってタイミングに悩んでいるのかもしれないしね。敵意があるってんならまた別だけど――あまり物騒な考えは起こすものではないよ、可愛い師妹」

 こういうときばかり兄弟子面をしてみせる。

「はあ。師兄がそうおっしゃるのなら」
「それより、お昼はなに食べよっか。俺、このあたりの店は開拓してないんだよねえ」

 へらっと笑って、また歩き出す。そんな彼の背中を釈然としない面持ちで眺めながら、

「待ってください、師兄」

 湖藍は慌てて彼の後を追った。