赤の妄執
「小藍」
声が。
「小藍、大丈夫かい?」
耳元で、声が。
穏やかな声が。体を支える手が。
(ああ、恐ろしい人だ)
湖藍は再三、そう思う。師兄は恐ろしい人だ。何食わぬ顔で選択肢を突きつけてみせながら、毒のような香を作りながら、その声は、手は、すがりつきたくなるほどに優しい。
我に返ったとき、香炉は既に片付けられていた。部屋の中には微かな残り香が漂うのみで、思念の気配はない。過去の記憶がいくらか混ざったのは、香の副作用によるものだろうか。軽く頭を振りながら、湖藍は呻いた。
「師兄、強すぎます」
「どれくらい?」
「わたしでも三日はうなされるかもしれません」
それを伝えるたび、漠然としたやり取りだと思う。けれど兄弟子は――人の気持ちなど微塵も解さないくせに――湖藍の感想だけは理解して適量に調整してみせるのだ。
「というと想珠を今の半分に抑えて……代わりになにを増やそうか。無難に乳香かな」
また調合に戻ろうとする秋寅を、湖藍は呼び止めた。
「師兄」
「なに? 小藍」
振り返ってくる。悪戯っぽい、黒曜の目が湖藍を見つめる。
「師兄は、視たのですか。今の思念を」
「そりゃあ視たさ。ずっとここにいたからね、俺も」
なんでもないことのように彼は答えた。
「では、一つ聞かせてください」
「なにかな?」
「この思念は、誰のものなのですか?」
訊ねる。と、彼は意外そうに瞬きをした。
「あれ? 分からなかった?」
「はい」
湖藍は頷いた。思念を視ても猶、腑に落ちないこともあった。燃え墜ちる機体。航空機事故の記憶。あれが真実であるとすれば、持ち主はすでにこの世にはいない。はずだ。そうではないのか。考えて――
「広瀬杏子さん」
囁くような秋寅の声に、気付く。気付いてしまう。
「師兄、あなたという人は……最初から知っていたのですか? 彼女が、その……」
「まあねえ。だって言ったでしょ、俺。彼女の許に彼氏が現れない理由をさ。一つ。やばい人たちと親しくしていた彼氏がポカやらかした。二つ。彼氏がやばい人たちからお金を借りて返さずに逃げた。三つ。彼氏がやばい人たちから目を付けられるようなことをしていて、今回の旅行も実は逃亡のためだった。彼氏はすでに囚われているか、もうこの世にいない。四つ――」
あのときのように一度、言葉を切って。
「やばい人っていうのが、実は彼氏だった」
唇を歪める。
「悲劇だよねえ。彼女には過去しかない。生きた人のように自分で物事を考えているようでさ、その実、引き出しにあるもので答えを代用しているに過ぎない。だから進んだ時間に存在する人を認識することはできない。彼氏の方は彼女の思念を一生懸命掴まえようとしているみたいだけれど」
「……っ、ネクロマンシー!」
そうか、あの男は。広瀬杏子の恋人は。あのハヤブサにしたように、杏子の思念に仮初めの器を与え甦らせる気だったのか。なにもかもを理解して、湖藍は愕然と兄弟子を見た。
「師兄。あなたは、どうするおつもりですか。杏子さんと彼を」
「そりゃま、依頼通りに仕事をこなすよ。真実の披露。それが彼女の望みだ」
秋寅は言った。やはり、なんでもないことのように。