赤の妄執





***在りし日、師父と。


 かつて師父であり養父であった男に訊ねてみたことがある。

「彼はなんなのですか」

 彼は師父と同じく日本からきた男だった。名を秋寅、という。師父の朋友、三輪尊という人の孫で、故郷ではそれなりに有名な異能者一族の生まれであるというがとてもそうは見えなかった。猫のようにふらふらと街へ繰り出しては女にちょっかいをかけるか、或いは書を片手に眠りこけているか――大抵がそのどちらかで、日々を無駄に過ごしている。
 彼女は大いに不満だった。湖藍。姓のない湖藍。幼い頃、師父に拾われた。師父は日本から渡ってきた異能者で、特殊な研究をしていた人だった。日本は半端な異能者が一般人に紛れ込むための訓練をするには協力的な国ではあるが、偉大な異能者が自由な研究をするには些か不自由する。と、そういった理由があったようだ。
 湖藍は当時、十歳。かねてから薬学を学びたいと訴えていたが、まずは一般教養を身につけろと言われるまま勉学に打ち込んでいた頃である。ひたすら研究に打ち込む養父の許で、はばかることなく怠ける彼への腹立たしさもあった。
 苦い顔をする湖藍に、師父は言った。

「彼は、あれでよい。眠りに就いている虎を起こすものではない」

 当時は意味が分からなかった。師兄となった男のことも、よく知らなかった。
 それから四年後。十四の頃に師父が死んだ。今わの際、彼は枕元に兄弟子と湖藍とを呼び寄せ遺言した。いや、あれは遺言というようなものではなかったかもしれない。彼は年老いた手で兄弟子の手を握りしめ、涙を流して頼んだ。そう、老父の悲しい懇願だった。店を継いでくれ。いつしかは師妹を娶って面倒を見てやってくれ。この三条院修泉の顔を立ててくれ、と。
 ――そのとき、師兄はどんな顔をしていたのだろう。
 師父の顔ばかり見ていた湖藍には分からない。ただ、頷く声が。

「大丈夫。悪いようにはしませんよ、師父」

 そんな師兄、三輪秋寅が店を捨てて独立を宣言したのは師父の死から二ヶ月後のことだった。湖藍にしてみれば、まさに青天の霹靂だった。その頃にはもう師兄の移り気な性格もだいぶ分かっているつもりだったが。まさか喪もあけぬうちに約束を反故にするとは夢にも思わなかった。どういうことか。詰め寄る湖藍に、彼は言った。

「いや、嘘は吐いてないじゃない。俺は師父の店を継ぐだなんて言ってないよ。流石に嫌だって言うのは空気読めないかなと思って遠回しな言い方したけどさ。俺は三条院修泉の後を継ぐために調薬士になったわけじゃないし」
「けれど、師兄」
「大体、俺は三輪家の跡継ぎどうこうってのが嫌でこっちに渡ってきたんだよ。それなのにここで師父の名前を借りて再出発って、違うでしょ。それでも亡くなってすぐってのは師父に悪いかなって思ったから、二ヶ月待った」

 と、それからすっと目を細めて。

「小藍。君はどうするのさ。俺は師父みたいに、ああしろこうしろって言う気はないよ。君は師父の店を継いでもいいし、俺と一緒にきてもいい。師父の遺言を聞かなかった俺のことを恨むっていうならそれもありだし。悲しいけど――まあ、好きにしたらいい。小藍の選択を尊重する。それが俺のやり方だからね」
「わたしは」

 店を継ぐ、などと言えるはずもなかった。そんなことをすれば、上海三条院の名は遠からず地に墜ちる。そのことを湖藍は知っていた。年齢が若すぎることを抜きにしても、彼女には素質がない。異能者としての才能はもとより、調薬士としても調香士としても兄弟子の足許にも及ばない。かといって、彼を恨んで危害を加えるというのも現実的な話であるとは思えなかった。慎重に視線を上げて、兄弟子の瞳を窺う。彼のことをよく知らない人は、いい加減な優男だとか、そういうふうに言うのかもしれない。湖藍も昔は、そう思っていた。
 けれどそのときは。もう、そうではないことを思い知らされていた。なにを考えているのか分からない。それは確かに、そのとおり。けれど彼はなにも考えていないわけではない。けっして、ない。
(ああ、恐ろしい人だ)
 ――俺のことを恨むっていうならそれもありだし。悲しいけど。
 と彼は言ったが。
 そのとき感情のまま師兄に襲いかかっていたらどうなっていたか。時折、湖藍は想像する。彼は驚いただろうか。悲しんだだろうか。いいや。いいや。その表情を少しも変えなかったに違いないのだ。ただいつものように肩をすくめて、大仰に残念だと悲しむふりはみせたかもしれない。けれど、きっと、それだけ。本人はふりではないと唇を尖らせるかもしれないが、湖藍にはそうは思えなかった。

「秋寅はなにに感じ入ることもない男だ。それが彼の才能だ」

 晩年、養父はそう言った。声には――ああ気付きたくはなかった――異能者としての嫉妬が滲んでいた。欠陥とも思える師兄の性質は、しかし師父がなによりも欲していた素質だった。異能者三条院修泉は薬学と新興調香学の分野で名の知られた人ではあったが、紙一重で彼の目指した高みに登り詰めることはできなかったのだ。努力ではどうにもならない、身寄りのない孤児を引き取るほどの優しさがその妨げとなった。


 笑んではいるが、どこか寒々としても見える。黒曜石色の瞳を見つめて、湖藍は仔兎のように答えるしかなかった。

「あなたに付いていきます。師兄」