赤の妄執







「師兄、先程の男は何者でしょうか?」

 ひとまず、少し離れたビジネスホテルに身を寄せて。
 湖藍は訊ねた。兄弟子はベッドに腰掛けて、キャリーバッグの中から調香のための道具を取り出している。乳鉢と乳棒、そして香料の入った保存容器をいくつか。

「さあねえ。うちの一族は有名だから。相手が俺のことを知っていたからって、会ったことがあるとは限らないっていうか、そもそもうちの一族はああいう技術頼りの術を好かないし」
「そうなんですか?」
「うん。だって、あれこそ才能なんて必要ないじゃない。素体と装置さえあればどうにでもなるものだからね。そりゃまあ金は必要なんだろうけど、その金を積んでできることといったら生きていた頃と同じように動かすくらいって俺はともかく弟や従兄のような術者にしてみたら失笑ものだよ。完全に式神の下位互換」

 と秋寅は言って、足元のトラ猫にウインクした。そのトラ猫は例のハヤブサを見て早々に逃げ出したのだが、彼の中ではなかったことになっているのだろう。

「まあでも――」

 呟きながら、兄弟子は顔を上げた。なにを考えているのか分かりにくい黒曜石色の瞳が、所在なげに座っている広瀬杏子を捉える。

「おかげで相手の目的は大体分かった。あなたのことも、ね。杏子さん」
「え?」

 杏子はきょとんと目を瞬かせている。短時間の邂逅でいったいなにが分かったのかと、そう言いたいのかもしれない。助けを求める顔で振り返ってきた彼女に湖藍は小さくかぶりを振った。

「申し訳ありません。わたしにもさっぱり……」
「だろうねえ。小藍とはちょっと相性が悪いからねえ。この一件」
「どういう意味でしょう?」

 訊ねる。兄弟子は答えない。代わりになんの前触れもなく、

「ねえ、杏子さん。あなたは――」
「師兄」

 嫌な予感に、湖藍は思わず口を挟んでいた。
 ――あなたはどうしたい?
 そう続くに違いなかったのだ。見つめると、兄弟子は少し不機嫌そうに肩を竦めた。

「まったく。そうやって先回りして非難するの、やめてほしいよなぁ。とはいえ……」

 一度言葉を切って、また微笑みを浮かべ直す。

「クリスマスだから、サンタ・クロースの代わりにちょっと助言でもしてみよっかな。今後のことだ。俺のオススメは、恋人のことを忘れて逃げる一択。あなたが縁もゆかりもない場所へ逃げてしまえば、彼に探す術はない。念のために俺と小藍がサポートもしてあげる」
「そんな! 彼のことを見捨てろって言うんですか?」

 杏子が悲痛に叫んだ。

「無理です。そんな。お願いです、彼のことも助けてください。秋寅さん、あなた言っていましたよね。あの男の目的が分かったって。なんなんですか? どうしてあの人は、わたしと彼を狙ったんですか。理由を教えてください」
「それがあなたの選択?」
「え?」
「ちょっと目を瞑るだけで、あなたはあなただけの平穏を手に入れることもできる。それでも、知ったところでどうにもならない真実を選ぶのかって訊いているんだよ。俺は」

 言って、秋寅はサングラスを外すと杏子の瞳をじっと見つめた。

「わたしは――」

 言葉が途切れる。ごくりと生唾を呑み込んで、彼女は続けた。

「わたしは真実を選びます」

 もし、そこにいたのが秋寅ではない別の誰かだったなら、女の決意に賛辞を送ってみせたのかもしれない。けれど、彼は。秋寅は。ほんの僅かでさえ感動した様子はなかった。

「そ」

 頷く。短い声の中に感情は含まれていなかったが、それを誤魔化すように秋寅は微笑を浮かべた。反応はやや遅れていたが、緊張する杏子は気付かなかったようだ。
 秋寅はそんな彼女に手を伸ばして、言った。

「じゃあ準備をするよ。そのコートをもらってもいいかな」
「コート、ですか?」
「そ、コート」

 言われたとおり、杏子は春色のコートを脱いで彼に渡した。

「ありがと。少し時間がかかるから、隣の部屋で休んでて。杏子さんも疲れたでしょ」
「え?」
「俺の得意分野は調香でね。選択に敬意を表して……なんてちょっと大袈裟だけど、あなたのために真実を暴く香りを調合してあげるよ」

 言葉に――上辺だけ聞くとなんとも親切そうに聞こえるその言葉に杏子は安堵したようだった。ありがとうございます、秋寅さん。と何度も頭を下げる。そんな彼女を隣の部屋に案内し部屋へ戻ると、湖藍は白けた心地で兄弟子を見つめた。

「師兄、そろそろ聞かせていただけませんか」
「なにを?」

 鞄の中を覗き込んでなにかを探しながら、彼が訊き返してくる。
 まったく、白々しい。湖藍は少しだけ声を険しくした。

「今度はどんな酷いことを企んでいらっしゃるのです」
「企む? あのさぁ、小藍――」

 探し物を見つけたらしい。呪符の束を片手に、秋寅は顔を上げた。

「君、師兄のことをなんだと思ってるわけー」

 つん、と唇を尖らせてみせる。

「俺はなにかを企んだことなんてないし、人を酷い目に合わせようと思ったこともないよ。ただ、まあ、そうだな。間が悪いとでも言うのかな。いつだってよく知りもしない他人の重要な選択に立ち会ってしまうんだ。で、変に面倒見がいいものだから請われるままに彼らに関わってしまう。それだけだ。自分の意思で他人の運命を悪い方に変えようと思ったことなんてない。ただの一度だって、ね。むしろどうしてみんな幸せになれないのかと悲しく思っているくらいさ」
「でしたら、師兄。杏子さんにせめて恋人を見捨てて逃げるべきだと思った理由を教えて差し上げてもよろしかったのでは。師兄、あなたは選択の結果を知っているくせに、いつだってそれを一人胸の内に秘めているんですから……」
「小藍――」

 秋寅はうんざりと頭を振りながら、立ち上がった。近づいてくる。兄弟子の方が二十センチ近くも高いため、無表情で見下ろされるといくらか威圧感を覚える。胸が触れるほどの距離で止まると、彼はそっと溜息を零した。苦い吐息が湖藍の鼻先を掠める。

「師、師兄、なにを」

 日頃は笑っていることの方が多いためなんとなく優男のように思いがちではあるが、よく見ると顔の造りは冷たい。彼は細い指先で湖藍の髪に触れると、

「羽毛、付いてた。あの鳥モドキのだね」

 なにか感情を呑み込んだ顔で、へらっと笑った。そのまま羽毛らしきものをゴミ箱に捨て、くるりとまたベッドの方へ踵を返していく。

「あと、さ。小藍。君は俺がなにもかもを分かっているふうに言うけれど、そんなことはぜんっぜんないからね。読みが多少鋭いってだけで、正しい答えを知ってるわけでもない。君は師兄を過大評価しすぎだよ。師兄馬鹿だよ、それじゃ」
「いいえ。いいえ、師兄。皆があなたの本質を知らなすぎるのです」
「甘やかすねえ、師妹」

 やれやれとまた溜息を――今度はいくらか軽めに――吐いて、秋寅はベッドに座り直した。束の中から呪符を一枚抜き取り右手に載せる。そうして、

「小藍、仕事だ」
「はい、師兄」

 真剣さを帯びた兄弟子の声に、湖藍は頷いた。
 その性質ゆえに特殊な調香を得意とする彼だが、だからこそと言うべきか。彼自身は想珠を素材とした思念香の影響を受けることがない。正確に言えば、それによって幻視させられる光景にも、まったく心を動かされないのである。そんな彼を基準に効果を調整すれば、どうなるか。恐らく人の心は簡単に壊れてしまうだろう。だが、湖藍は――
 湖藍には調薬士としての才能がない。調香士としてもいまいちだ。新しいものを作り出すことが怖くなってしまうので、決まった調合以外できない。三条院修泉の養女でありながら、彼が生きているうちには異能者の端くれにすらなれなかった。
(……今は、端くれくらいにはなれたのだろうか?)
 自問する。
 人の想いを自分のもののように感じながら、一方でそれを完全に俯瞰する。それが湖藍だ。師父が死に、兄弟子と二人になるまで気付かなかった。たとえば物語を読んで涙を流しつつも登場人物と自分とをけっして混同してしまわないように、湖藍は思念を、そして彼の香を限りなく理想に近い形で感じることができる。
「まるで俺のためにあるような才能だねえ」
 と喜ぶ兄弟子を見たときには流石に殴りたくもなったが、確かに他に活用しようのない能力ではあった。湖藍は渋々認めた――これは、師父のいない世界で生きていくために必要な“才”だ。

 サイドテーブルの上に小さな陶器製の香炉が一つ。無造作に置かれている。

「準備が整いましたら、いつでもどうぞ。師兄」
「では遠慮なく」

 言って、彼は呪を――