Unhappy Summer Vacation






(で、こうなるわけか)
 居たたまれない。非常に、居たたまれない。
 痛む腹のあたりをさすりながら、和泉は密かに溜息を吐いた。顔を見るなり、イズミ! と叫んで突進してきた少女を受け止めた――というか避けられなかった――結果が、これだった。「高坂くん、気をつけろよ。万里の頭突きは痛いから」と呻く和泉に遅すぎる忠告をした男は、今は隣に座ってオムライスをつついている。卵とチキンライスとを均等にスプーンですくう彼は、やはり妙に間抜けに見えた。日頃の気取った姿とかけ離れているせいかもしれない。現実味がない。実は悪夢を見ているのではないかとさえ思いながら、和泉はサラダを口元へ運んだ。
 オムライスにオニオンスープに豆のサラダ。無難なメニューだ。万里の好物だろうか。向かいに座る少女は口の周りをケチャップだらけにしてオムライスを頬張っている。それを窘める透吾と、そんな彼らをにこにこ眺めながら静かに食事する女。
(場違い、だよなぁ)
 透吾が気を遣って話を振ってくれたとしても、気の利く返しができるわけでもない。零れそうになる溜息をどうにか呑み込んで、苦手な豆をフォークでつつく、と――

「イズミ、豆嫌いなのか?」

 目敏く気付いた万里が、そう訊ねてきた。

「え、ええ。まあ」

 なんとなく申し訳なく思いながら、曖昧に頷く。すると、少女の瞳が輝いた。

「あたしも! まずいよな、豆」

 仲間を見つけたと言わんばかりの彼女は、自分の皿の豆をフォークで突き刺すと透吾の皿の中に次々放り込んでいく。それに気付いた透吾は、ひくりと頬を引き攣らせた。

「こら、万里。やめなさい。お行儀が悪いわよ」

 女が慌てて叱るも、万里はどこ吹く風である。

「イズミもトーゴにあげちゃえよ。こいつ、好き嫌いないんだぜ」
「…………」

 少女の言葉に乗るつもりはこれっぽっちもなかったものの、和泉はちらっと透吾の顔を覗き見た。彼はこちらを見ていなかったが、視線は感じたのだろう。にこりともせずに言った。

「残さないからと言って、苦手なものがないわけじゃァないからな」
「……苦手なんですか、豆」

 そんなこちらの言葉に答える代わりに、豆を放り込まれた皿ごと万里の方へ寄せる。それを両手で押し返しながら、少女が叫んだ。

「おい、ずるいぞ! 人には好き嫌いは駄目とか言うくせに。自分で食べろよ!」
「手付かずならともかく、食べかけをよこすのはマナー違反だ」
「いいじゃんかー。あたしだってよくトーゴの食べかけのアイス食べてやってる――」
「食べてやってるって……頼んでもいないのに君が勝手に食べるんじゃないか、万里」

 なんとも騒がしい食卓である。
 こんな食事は初めてだ――と、うんざりしながら和泉は仕方なしにフォークで豆を突き刺した。どうやら残すわけにもいかない空気だ。仕方なしに口元へ運ぶ。想像していたとおりの不毛な食感と素朴な味に、顔をしかめることだけはどうにか堪えて、水と一緒に喉の奥へ押し流す。それを繰り返してようやくサラダを完食したとき、女が声をかけてきた。唐草美千留。万里の母親だ。少しタレ目がちな美人で、葬儀会社の代表よりはフラワーショップやケーキ屋の方が似合うような雰囲気である。

「ごめんなさい。騒がしいでしょう?」

 口元に手を当てて苦笑する、そんな彼女に和泉は躊躇いつつも答えた。

「……いえ。なんか、意外でした」
「透吾君?」

 声には、子供を呼ぶような優しい響きが含まれていた。

「いつもこうというわけではないの。多分、ここのところ忙しかったせいだと思うから」

 幻滅しないであげてね。と、やはり母親のようなことを言う。彼女の視線を追えば、二人の攻防には一応の決着がついたようだった。泣きながら倍になったサラダを頬張る万里と、上機嫌に微笑する透吾――

「あ、美千留さん。サラダの残りってある? 新しいのをもらいたいんだけど」
「ええ、いいわ。キッチンにあるから、好きなだけどうぞ」
「了解」

 皿を片手にキッチンへ消えていく彼の後ろ姿を眺めながら、美千留がまた嘆息する。

「特にこの時期は、浮き沈みが激しくて」
「この時期って……お盆ですか?」
「そう、お盆」
「世間は夏休みですけど、葬儀会社は忙しいんでしょうね」

 働いたこともないため、気が滅入るほどの忙しさは想像できなかったが。一応理解を示してみると、彼女は複雑な顔で頷いた。なにか言いたげに口を開きかけて――

「美千留さん」

 透吾の声に、ぎくりと口を閉じる。

「な、なに? 透吾君」
「彼は同業者じゃないんだから、仕事の愚痴は話すもんじゃないよ」

 言いながら、透吾はサラダを盛った皿をテーブルに置いた。手が滑ったのか、がたん、と大きな音が響く。サラダの味を掻き消すようにオムライスを口に詰め込んでいた万里が、少し顔を上げて、美千留と透吾を交互に見た。

「ああ、そうね。あなたの友達だって言うから、つい」
「つい、じゃないだろう。責任ある立場なんだから。あ、万里。鼻の頭にケチャップついてる」

 柔らかな、それでいて有無を言わさぬ調子の口調に、ほんの少しだけ緊張が走る――和泉は隣で立っている透吾を密かに見上げた。彼はいつも通りに見える。いつも通り、微笑んでいる。目だけが冷たいその顔で。
(でも、珍しいな。この人がこんな風に空気の読めない言い方をするなんて)
 それほどの失言には聞こえなかったが、美千留も黙り込んでしまっている。自分がなにか言った方がいいのかと思いつつも気の利いた言葉も思いつかず、和泉は体を縮こまらせていた。
 そんな居心地の悪い沈黙を破ったのは、万里だった。ぱんっと乾いた音が響いたのは、彼女が勢いよく両手を合わせたからか。口に詰まっていたオムライスを呑み込んで――

「ごちそーさま! イズミ、ゲームやろ。ゲーム」

 椅子から滑り落ちるように降りた万里は、テーブルの反対側に回り込むと和泉の手を掴んだ。ついでに透吾を見上げて、愛嬌のある顔でべーっと舌を出す。

「トーゴは意地悪したから交ぜてやらねーよーだ。あたしに二皿もサラダ食わせやがって」
「ちょっと、万里さん。俺、ゲームなんてしたこと……」
「あたしが教えてやるよ。格ゲーやろ、格ゲー」

 なんとなく少女が代わりに空気を読んでくれたらしいことは分かったが、格ゲーと言われても困ってしまう。和泉はゲームのコントローラーを握ったこともなかったし、子供の相手も苦手である。
 透吾に救いを求めると、彼はひらひら手を振った。

「俺だけ仲間はずれか。寂しいけど仕方ないな。万里には嫌われてしまったから」
「心底嬉しいって顔ですよ。もう少し隠そうとしたらどうです、藤波さん」
「嘘は苦手なんだよ、俺は」
「それこそ嘘でしょう」
「心外だな。君に嘘を吐いたことは、まだなかったはずだけど」

 今度は本当に不服そうな顔でぼやいている。
(まだってことは、嘘を吐く予定があるってことじゃないか)
 とはいえ、さっきよりいくらか空気がましになったことは確かだった。リビングの方へ引きずられながら、和泉は安堵と憂鬱の入り交じった息を吐いたのだった。



つづく