Unhappy Valentine's day







 街中で、見覚えのある顔を見つけた。
 高坂和泉が“その日”のことに気付いたのは、彼を見留めてしまった後だった。2月14日。聖バレンタインデー。269年頃に殉教死したローマの司祭、聖バレンタインの記念日。毎年2月に入った頃から世間はこの記念日を持ち上げ始めるが、実を言えば彼の存在を思い出してその死を悼む人がいるというわけでもない。製菓会社の陰謀と愛憎渦巻く複雑なイベント――つまりは、チョコレートと一緒に愛を伝える人、伝えられる人、恋人たちを憎む人・・・・・・それぞれが何だかんだと騒ぎ立てながら当日までを楽しむ、一種の祭りのようなものなのだろう。と、和泉は思っている。
 とにかく、そうして客観的に分析してしまう程度には縁のないイベントだった。チョコレートは嫌いではないが、貰えないことを妬むほどの好物ではない。勿論、世の貰えない男性がその日を憎むのに別の理由があることも、理解していないではないが。




「やあ、高坂君」

 目が合うと、その男は唇の端に小さな微笑を浮かべてみせた。まるで知己にでも会ったかのような親しげな笑みだ。片手まで上げようとして――自分の両腕が塞がっていることに気付いたらしい。ひょいと肩をすくめて、

「すまないね。両腕がいっぱいなんだ」

 と。紙袋を三つほど抱えた彼――藤波透吾はそう言って、小さく鼻を鳴らした。

「・・・・・・どうも」

 どこからが嫌みなのかまったく分からないその嫌みっぽさは、まったく見事という他ない。和泉は渋々挨拶を返して、鼻の頭に皺を寄せた。正直なところを言えば、彼が声をかけてきたのは意外だった。先日の別れ際のことを思えば――こんな風に会話を交わしていることは滑稽にすら思える。その嫌悪と疑問は、はっきりと顔に表れていたのだろう。

「随分と嫌われたようだな」

 透吾は特に傷付いた風もなく、苦笑してみせた。

「というか。俺は、あんたがそうやって何食わぬ顔で話しかけてきたことに驚いていますよ」
「別に、気まずくならなければいけない理由はないだろう? 子供の喧嘩じゃァないんだ」
「子供の喧嘩よりも厄介だと思うんですけどね、俺は」
「随分、はっきりと物を言うようになったじゃないか。まあ、それも先日のことが君の中で過去になりつつある証拠なのかな。どちらにせよ、終わったことをああだこうだと言っても仕方がないし。こうして道で会って早々に口論をするというのも、お互いにらしくないんじゃないかと思うんだが」

 らしくないと語れるほど、彼が自分のことを分かってくれているとは思えなかったが。それを言って教えてやるのも癪に思えて、和泉は少しだけ――ほんの少しだけ、皮肉めいた笑みを唇の端へと浮かべるに留めた。

「それで? 俺に何か用があったんですか?」

 代わりに、訊いてみる。彼は大仰に首を振った。

「別に。用があったわけではないさ。街の中で知人を見かけたら声をかける――これって、何か特別なことかな?」
「俺は、あなたのことを知人だなんて思っていませんけど」
「じゃあ、他に言い方があるかい? 俺は君の名前が高坂和泉であることを知っているし、君も俺の名前を知っている。不本意ではあるがお互いの連絡先も知っていて、今もこうして話をしている。知っているだけの他人。気の合わない、顔見知り。もう少し洒落た言い方をすると、因縁の仲・・・・・・・まあ、どれにしたって結局は知り合いってわけさ。縁ってのは面倒なものでね。お互いが記憶喪失にでもならない限り、一度出会ってしまえば見ず知らずの他人に戻ることはできない」

 なってみるかい? 記憶喪失――と、透吾は愉快そうに喉を鳴らした。相変わらずの詭弁家だ。いや。彼のそれは詭弁と言うにも空虚な、暇潰しのお喋りに過ぎない。和泉はいくつかの文句を呑み込んで、

「それにしても、随分と人気があるんですね。最初、紙袋のお化けが歩いているのかと思いましたよ」

 代わりに、溜息を一つ。と、皮肉を一つ。何となく逃げてやる気にもなれずに言い返す。透吾は珍しく目を瞬かせたが、すぐに自分の状況を思い出したのだろう。ああ、と微かに眉間へと皺を作った。

「これかい?」

 つまらなそうに両腕を少しだけ持ち上げて、続ける。

「学生時代ならともかく。この歳になったら、プレゼントの量なんてステータスにはならないよ」
「それも皮肉ですか?」
「失礼だな。事実さ。社会人てのは面倒なものでね。特に女性は、何というのかな。こういう言い方をするのは実に申し訳ないと思うんだが――いわゆる女子力というやつを試されるときがあるんだよ。年に何回か、ね。つまり、義理だよ。義理。こういったもので仕事の評価をするわけではないし、そのことは彼女たちも分かっているんだろうけど・・・・・・やっぱり、そう割り切れるものではないんだろうな。毎年、わざわざ持って来てくれるんだ」

 君は身軽そうでいいね、と透吾。それも本音ではあるのだろう。荷物の重さを思い出した彼の顔は、心なしか歪んで見える。

「自分への贈り物は捨てないんですね」
「他人宛だったら捨てるってわけでもないさ。誤解しているようだから言っておくが。俺は死人を想うことを無意味だと言っているのであって、人の気持ちを蔑ろにしているわけじゃァない。女性が選んでくれた贈り物を無碍にしては悪いと思う程度の優しさだって、持ち合わせているんだぜ?」

 言って、疲れた顔でにこりと微笑む。その物言いからは、本人の言う“優しさ”など微塵も感じられなかったが・・・・・・。その女受けのする笑顔の裏に、酷薄さがあることを知る人は少ないのだろう。

「はあ。そうですか」

 流石に呆れて、和泉は感情のない声で呟いた。それからすぐに、彼の暇潰しに付き合ってしまった自分の間抜けさに気付いて、顔を顰める。
(また、無駄な時間を過ごしてしまった・・・・・・)
 少しだけ落ち込みながら背を向ければ、後ろからは彼の声が追って来た。

「おい、高坂君」

 振り返る――
 飛んできたそれを思わず受け取ってしまってから、和泉はひくりと目元を引き攣らせた。赤地にポップなハートが散りばめられた、四角い箱。I LOVE YOU と印字された可愛らしいリボンが掛かっている。

「あの。俺、そういう趣味はないんですけど。というか、やけに構ってくると思ったら、そういう趣味の人だったんですか。いえ。別に変わった性癖のある人を否定するわけではありませんが、とりあえず俺はそういう方向に目覚められそうにもありませんし、どちらかというとその手の人は非常に苦手ですので、これを受け取ってしまうわけには・・・・・・。あ、投げ返すのでそこから一歩も動かないでください」

 無表情で言えば、彼は苦く笑った。

「そういう疑惑をかけられたのは初めてだ。まあいい――いや、良くはないな。俺だって女性の方が好きに決まっている。って、そんな不毛な話ではなくて・・・・・・・ああ、我ながら回りくどい言い方をしているな。つまり、それは万里から預かったものなんだよ。君にもあげたいと言って聞かなかったから、代わりに渡してやると言ってしまってね。気が向いたら連絡をするつもりだったんだが、丁度会えて手間が省けた」

 それなら、敢えて拒否する理由もない。彼女が――唐草万里がこれをくれた理由は、謎ではあるが。
(意外に義理堅い・・・・・・のかな。俺は、絵で十分に返してもらったつもりなんだけど)
 手の中の四角い箱を見つめながら、和泉はふと浮かんだ疑問を口に出してみた。

「・・・・・・気が向かなかったら、どうするつもりだったんですか?」
「さあ? どうしていたと思う?」

 悪戯っぽく言って、透吾はくるりと背を向けた。両手に紙袋を抱えたまま――何をそんなに気取る必要があるのか――颯爽と歩いて行く彼の後ろ姿を、最後まで見送ることなく、踵を返す。

「やれやれ。最近は、迂闊に外を歩くこともできないな」

 小さく溜息を吐きながら足を踏み出して、和泉ははたと気付いた。ポケットの中では携帯電話が規則正しい振動を繰り返している。空いた左手で取り出して確認をすれば、

「・・・・・・国香さん」

 もう溜息を重ねる気にもなれずに、そのまま通話ボタンを押す。携帯からは、耳慣れた女の声が次の受難を告げていた。



END

バレンタイン前編。(後編などなかった……)
透吾と和泉。ちなみに透吾が貰っているチョコレートは七割くらい本命である。ろくな男ではないのだが、理不尽にもてる。本人も義理ではないことは分かっている。とにかく性格の悪い男である。
和泉は周囲に対して無関心なので、誰からも貰えなくてもバレンタインというイベントに対して何かを思うわけでもなく。五樹がたくさん貰うので、食べる分にはそれで十分だと思ってる。ブランド物の凝ったチョコレートなんかを見ることは好きだったり。