三輪辰史とバレンタインデー







 どうしようもない兄を追い出して、三輪辰史ははぁと溜息を吐き出した。あの兄と対峙したあとはいつも途方もない虚脱感に襲われる。恋人はやや面食らった顔をしていたが、こちらの様子に気付くと傍に落ちた靴を拾い上げて「落としましたよ」と渡してきた。まるでシンデレラのようなシチュエーションだ――と苦笑しながら、それを受け取る。実際、三十分もすればバレンタインの魔法も解けてしまう。
「ん、サンキュ」
 受け取って、辰史は眉をひそめた。
「お前、どこに寄り道してきたんだ?」
「え?」
「なんか、いろんな匂いがする」
 少し体を引こうとした比奈の肩を掴んで、その首のあたりに鼻を押し付ける。
 背伸びして付けたような柑橘系のフレグランスは十間あきらか。まるでこちらに対抗するように、彼が自分とは対照的な香りをまとって存在を主張していることは知っていた。比奈が提げている紙袋の中を覗けば、赤い薔薇が一輪。狐憑きの目を思わせるその色に、やっぱりあきらかと確信する。なんだかんだで彼とは趣味が似ているのかもしれないと思いながら、辰史は鼻を鳴らした。それだけでも面白くないというのに――微かな線香とそれを誤魔化すような爽やかな香りが鼻につく。それから墨。この二つは分からない。古びた印刷物の匂いは隣の大学生だろう。そして漢方は秋寅だ――近い位置からじろりと比奈を見つめる。
「……浮気者」
 ぼそりと呟くと、比奈は心外だという顔をした。
「浮気なんてしてませんよ」
「そんなこと言って、お前どうせまた変な男に絡まれて相手してやったんだろう。そういうのは全部罠だから無視しろって、いつも言ってんのに。見ず知らずの男には構ってやるのに、恋人の頼みは聞いてくれないんだな」
 我ながら鬱陶しいなと思いつつ、しかし言わずにはいられない。
「バレンタイン、もう終わっちまうぞ」
 じっとりと責めながら、紙袋を持ったままの指先をほどく。いくらか罪悪感もあったのか、比奈はそれをすんなり手放した。通勤用鞄と一緒にそっと地べたに音して、指を絡める。
「ずっと、待ってたんだけどな」
「ごめんなさい」
 囁く吐息が鼓膜を打った。
「辰史さんのこと、後回しにしたわけじゃないんです」
 冷えた体が身じろぎする。
「わかってる、けど」
 手に力を込めて、
「なんか腹立つ」
 見つめる。ふと耳朶の噛み傷に気付いてしまった。歯形は明らかに人のものではないが。誰にやられたのかと訊くと、比奈はどこか気まずげな顔で、しかし正直に告げてきた。
「その、ナンパ中の龍に」
「なんだそりゃ。つうか御霊は」
「……気があってしまったみたいで」
 呻く彼女の視線につられて足元を見る、と黒狐が決まり悪げにそっぽを向いている。この浮気者、ともう一度呟いて、辰史はうっすらと血の滲んだそこに舌を這わせた。
「俺がいるのに」
「辰史さんしかいませんよ」
「口ばっかり」
 俺にももう少し優しくなってくれないものかね、と内心毒づきながら体を押す。わ、と仰け反るように広敷に腰を落とした比奈の上から覆い被さって、唇を塞ぐ。その瞬間、奥の部屋に置いたホールクロックの鐘の音が0時を告げた。
「バレンタイン、終わっちまったな」
 下唇を軽く噛んで、見上げてくる赤い瞳に囁く。両腕を伸ばしてこちらの首に絡めながら、比奈が言った。
「延長でお願いします」
「高く付くぞ」
 答える代わりに体を起こして、唇を重ねてくる。それを了承と受け取って、辰史はようやく少しだけ頬を緩めた。





END

-----------------

*あきらと薔薇
たまには背伸びしたあきら。
報われないなりに満足してるというか落ち着いてしまっている。

*藤波とティッシュ
最初のネタはもう少しアダルティだった。
自重しすぎたら一番糖度が低くなってしまった葬儀屋。

*鳴き龍と誘惑
龍に弱い御霊と、遠くまで出張してしまった鳴き龍。
多分妙泉寺の住職は大騒ぎしてると思う。

*瑠璃也と誕生日
誕生日なので(としか言いようのない扱い)

*秋寅と薬
いい仕事をしにきたと見せかけてやっぱり愚痴りに来ただけのお兄さん。

*辰史とバレンタイン
匂いで男をかぎわけるとかストーカー度がますます上がった主人公。
戸締まりを忘れた。