鳴き龍と誘惑のキス







 なんだ、ありゃ。
 妙泉寺から抜け出してきた鳴き龍は、それを見るなり眉をひそめた。スーツ姿の女――それ自体は、珍しいものでもない。手に提げた通勤用鞄と紙袋。ほんのりと匂ってくる甘い香りは、チョコレートだろうか。まあ男のいそうな容貌だしなと呟きながら、唇を歪める。興味を惹かれたのはそれなりに整った容貌でも、姿も知らない男の存在でも、ましてチョコレートでもなく、彼女の足元にぴたりと張り付いた影だった。
「おっと、すまない」
 偶然を装ってぶつかる。その拍子に後ろへ弾かれた女の腰に腕を回すと、妙泉はぴたりとその耳に唇を寄せた。
「夜の一人歩きは危ないぜ、お嬢さん――と言いたいとこだが、まあ大丈夫そうだな」
「え?」
 大きく見開かれた鳶色の瞳が見上げてくる。濃い獣の匂いが鼻についた。
「狐、連れてんだろ」
 なにをそんなに驚くことがあるのか、女は「え?」と繰り返している。一方で宿主よりは鋭いらしい狐は影から這いだして、まるで同胞でも見つけた顔で妙泉の足元にすり寄ってきたのだった。女を支えた腕とは逆の手で狐の額を撫でてやりながら、まだ硬直している女に囁く。
「人間ってのはこれだから面白い。化け兎を使役できるガキがいるかと思えば、あんたみたいに影の狐を連れたやつもいる」
「あ、あなた、龍?」
 遅れて――狐を通じてそれを知ったのだろう――目を丸くする女に、妙泉は鋭い歯を見せて笑った。二百年近くに渡って多くの女と情を交わしてきたが狐憑きはまだ食べたことがないな、と思いながら先の割れた舌でねっとりと耳の縁をなぞる。“さかしま”に似た夜の匂いと影の狐の芳香が“向こう側”の本能を酷く煽る。まだ辛うじて鳶色を保っているその瞳が赤く染まったらさぞ美味いのだろうと舌なめずりをして、鳴き龍は女の耳朶に噛み付いた。朱を引いたような唇から微かに零れる苦痛の声も、酷くそそるものがある。
「なァ、ここで出会ったのもなにかの縁だ。彼氏のとこへ行く前につまみ食いってのも悪かないと思うぜ」
 誘う声で。
 けれど、女は本気で嫌そうに眉をひそめながら妙泉の胸を押し返した。
「……龍は間に合ってます」
「あぁ?」
「わたしの恋人も“龍”なので」
「じゃ、食べ比べ」
「浮気はしない主義なんです」
「むう。誠実な女は嫌いじゃないが、そういう女に限って他の男のものなんだよな」
 こりゃ駄目だ。
 味見すら許してもらえる気がしない。それを察するが早いか、妙泉はするりと彼女から離れて鼻を鳴らした。面白くないが、執着するほどでもない。なんせ世の中に女は星の数ほどもいるのだ。もう百年ほど過ごせばまた狐憑きを食う機会もあるだろうと思い直して、妙泉はもう一度だけ黒狐の額を撫でた。“さかしま”の狐と違って、素直で可愛らしいものである。人懐こい影の狐を眺めていると、いっそうそれをものにしたい欲求がわき起こったが、妙泉は腰をかがめてぴんと立った狐の耳に軽く口付けを落とした。
「残念だが仕方ないか。じゃあな、可愛い黒狐ちゃん」