三輪秋寅と魔法の薬







「こんばんは! 遅くなってごめんなさい、辰史さん――」
 そう声をかけながら引き戸を開けた人物の姿を認めると、三輪秋寅は破顔した。
「お、比奈ちゃん!」
 と相手の名を呼ぶ。弟が婚約者と称して恋人を連れ帰ったのは、従兄との和解がなったすぐ後だったか。あの我侭な末っ子に恋人がいたというだけでも信じがたいというのに、もう四年も付き合っているというのだから。両親は彼女が狐憑きであることにやや難を示しているようではあるが、秋寅と卯月としては彼女を逃せば弟と結婚を考えてくれるような奇特な女は二度と見つかるまいということで意見が一致していた。
「あ、お兄さん。ご無沙汰しています」
 にっこりと――当たり前のように比奈が微笑み返してくる。それだけのことで感動を覚えるというのは、三輪家で“微笑”できる人がぱっと思い付かないせいかもしれない。なんせ笑いと言えば哄笑を指すような一族だ。
 いいね、お兄さんって響き。
 うんうんと頷きながら、改めて彼女を眺める。顔立ちの整った、控えめな美人だ。従兄といい弟といいまったく面食いと言う他ない。しかも揃って年下を連れてくるというのだから、まったく誰に似たのか――そこも祖父か。そういえば祖母も祖父より三つ四つ年下で、やはり綺麗な人であったと聞いている。血って怖いね、と胸の内で呟きながら、秋寅は答えた。
「辰ちゃんならコンビニだよー。比奈ちゃんがなかなか来ないものだから拗ねちゃってさ」
「すみません。営業所を閉めるのが遅れてしまって――お兄さんは今日は泊まりですか?」
「いや、ホテル取ってる。今日くらいは空気読まないと、辰ちゃんに殺されちゃいそうだから。甥っ子も泊まりでいないしねえ。丑雄従兄さんは伊緒里ちゃん誘って旅行だって。あんな仏頂面で愛妻家だってんだからもー、今度会ったらからかってやってよ。今年は卯月にも男がいるし。みーんな幸せそうで羨ましいなあ、まったく」
 思わず愚痴ると、比奈は少し困ったような顔で紙袋の中から包みを取りだした。
「ええと……お客さんに配ったあまりものですが、よろしければどうぞ」
「どうもどうも。じゃあ俺からもお礼にどうぞ」
 それをひょいと受け取って、秋寅は彼女の手の中に封筒を落とした。
「辰ちゃんに渡すつもりだったんだけど、まあどっちが使っても同じだから」
「なんですか、これ?」
 小首を傾げる仕草がよく似合う。秋寅はふふふと笑って答えた。
「口の悪い辰ちゃんに、お兄さまこれまでごめんなさいでしたと言わせる魔法のお薬」
「…………毒?」
「いや違うから! いくらあれな弟だからって、毒盛ったりはしないから!」
 まあそれくらい天然でなければあの我侭で妙にロマンチストな弟とは付き合えないのだろうと思いながら、秋寅はやれやれと肩を落とした。
「んーじゃあ言い方を変えよう。大人の関係にもう少しだけ刺激を与える――」
「てめえ、なに弟の恋人にセクハラかましてんだ死ね!」
 瞬間、飛んできた革靴の先が鼻を殴打した。
「いだだだだ……」
 サングラスをかけていなくてよかった、と思いながら鼻を押さえる。幸いにも鼻血は出ていないようだ。鼻骨は若干ずれたような気がしないでもないが――なにすんの、と顔を上げると入り口に足を蹴り上げたまま目をつり上げている弟の姿があった。器用にも靴だけ飛ばしたらしい。
「お兄ちゃんがせっかく気を遣ってあげたのに」
「黙れ。んなもんで比奈が喜ぶか。色ボケ姉貴と一緒にすんじゃねえよ」
「いや、うーちゃんも喜びはしないと思うけど」
「身内でさえ喜ばねえもんを人の恋人にやるんじゃねえ! さっさと帰れ!」
 まったく、気の短い弟だ。誰に似たんだかと思いながら、秋寅はひょいと肩をすくめて置き時計をちらと見た。三十分ほどでバレンタインデーも終わりである。気のせいでもなんでもなく焦ってみえたのはそのせいか。本当に、辰ちゃんたらロマンチストなんだから――呟いて、辰史と入れ替わりで外へ出る。寒い。ぶるっと身震いをしてなんとはなしに空を見上げる。雪だ。
「なんていうか、ごちそうさまだね」
 まったく迷惑なことだ。やや荒んだ心地で後ろを振り返ると、弟が「もう来るなよー」と見送ってくれていた。また明日来るよと答えて、秋寅は駅に向かって歩き出した。