名島瑠璃也と誕生日







「すみませーん。もう閉店なので……」
 蝶番が軋んで来客を告げる。名島瑠璃也は書棚に布をかける手を止めて、振り返り――あ、比奈さん。と相手の名前を呼んだ。天月比奈。蛟堂の店主こと理不尽が服を着て歩いているような男、三輪辰史の恋人である。その彼女がどうしてここにいるのかと訝って、瑠璃也は眉をひそめた。
「鬼堂さんなら今日はいませんよ」
 チョコレートを期待するでもなくそんな言葉が出たのは、義理チョコを期待することの無意味さを知っていたためでもある。比奈本人は人が好い傾向にあるものの、独占欲の強い狭量な男が四六時中一緒にいるのだ。あんな男でも理解を示してくれる恋人がいるというのに自分ときたら……と、落ち込む瑠璃也に、比奈は紙袋を掲げてみせた。
「今日は瑠璃也くんに用事があるのよ」
「俺に?」
「そう。営業所で配ったあまりなんだけど、瑠璃也くん甘い物好きでしょう?」
 紙袋の中から綺麗に包装された包みを取り出して、渡してくる。
「うわああああ、ありがとうございます!」
 あまりだろうがなんだろうが、嬉しいものは嬉しい。
「うう、バレンタインっぽいチョコレートくれたのは比奈さんで二人目なんですよぅ。大学の友達はパラソルチョコとかチロルチョコとか五円チョコとか年の数だけ袋に詰めてくれる感じで……いやそれはそれでありがたいんですけど、こう、色気が……」
「一人目は? 女の子?」
 興味津々に訊いてくる彼女に、瑠璃也はがっくりと肩を落とした。
「いや、太郎ちゃんです。ガトーショコラを」
「……女子力高い」
「比奈さんはどうなんです? 三輪さんへのプレゼントは手作り?」
 ちらっと手の中の包みに視線を落とす。それはどうやら既製品のようだが。
 比奈はこちらの視線に気付くと苦笑交じりにかぶりを振った。
「辰史さんにはね、今年は腕時計。チョコレートも用意しようかと思ったんだけど、辰史さんは甘い物はそんなに好きじゃないし、前にブランデーをプレゼントしたときにはちょっと……」
「あれ、三輪さんてうわばみじゃありませんでしたっけ」
 首を傾げる瑠璃也に、比奈は苦い顔をするばかりでなにがあったのかは教えてくれなかった。なんとなくあの男のやらかしそうなことは分かるような気もするので、それ以上の追及はやめておくことにする。
 会話が途切れると、比奈は思い出したように腕時計に視線を落とした。
「閉店作業の邪魔しちゃってごめんね」
 というよりは、隣で待つ恋人のことが気にかかるのだろう。下手に引き留めると辰史が乗り込んできかねないため、瑠璃也は素直に彼女を見送った。
「いえ! これ、ありがとうございました」
 控えめに笑い返してくる比奈を眺めながら――ああ、俺も早く彼女がほしいな、と独りごちる。と、ドアの手前で立ち止まった比奈が一度だけ振り返ってきた。
「あ、瑠璃也くん――」
「なんですか?」
「誕生日、おめでとう。今度、秋子さんも誘ってスイーツビュッフェでも行こうか」
「はは、うちの母さん連れてくと出入り禁止になっちゃいますよー。鉄の胃袋ですから」
「知ってる。前に辰史さんが同じこと言って、殴り倒されてた」
 ふふ、と笑って今度こそドアの外へと踏み出していく。蝶番が、また軋む。彼女の背中が夜の闇に溶け込むのを見送って、瑠璃也ははぁと溜息を零した。彼女は気を遣ってくれたつもりなのだろうが、ああも見せつけられてしまうとないものねだりもしたくなる。
「うう……三輪さんばっかりずるいよなぁ……」
 今度は、つい声に出して。
 背後の棚からバサバサと本が落ちる音を聴きながら、瑠璃也はしばらくそうして項垂れていたのだった。