十間あきらと薔薇の花







 十間あきらはもう一時間もそこで彼女を待っていた。暗い、彼女の影を思わせる色の空に吐き出した白い息がとけて消える。暗い色の月は、まるで彼女の瞳にも似ている――と一人で妄想を逞しくしているうちに気分も盛り上がってくる。
「比奈さん――」
 どうしようもなく胸を締め付けられる思いで、彼女の名を呟いてみる。営業所のドアが音を立てて開いたのは、その瞬間だった。心臓が跳ねる。銀色の螺旋階段を駆け下りてくる、その細い影は心なしか急いでいるようにも見えた。その理由に気付いてしまって、少しだけ胸が痛む。あと二時間――特別な日が終わるそのときまで彼女を引き留めてしまおうか、などと腹立たしく思いながら、あきらは声を絞った。
「比奈さん!」
 ぴたり、と足が止まる。駅の方角ばかりを見ていた彼女の視線が、きょろきょろとあたりを見渡し、あきらの上で止まった。
「十間くん?」
 やや距離を感じる、けれどそう呼ぶのは彼女だけだ。おそらく。その特別な響きと、名前で呼ばれてみたい欲求との狭間で、あきらはいつも迷うのである。結局のところいつもどおり――変化を要求する勇気もなく、言葉を呑み込む。
「どうしたの? 営業所に忘れ物?」
「いや――」
「あ、そうだ」
 言い淀んでいると、比奈はあっと気付いた顔で提げていた紙袋をがさごそと探った。取り出したのは、綺麗に包装された包みだ。赤いリボンにハートのシールが貼り付けられている。彼女はにっこりと笑って、それをあきらに差し出してきた。
「これ、よかったら」
「へぁっ!?」
 まさか比奈からもらえるとは思っていなかったため、喉の奥から奇声が零れた。かぁっと顔が熱くなる。「残りものでごめんね」とかなんとか聞こえたような気もするが、それは聞かなかったことにして、あきらは震える左手でそれを受け取った。彼女と出会った年にこそ期待したものの、どこぞの報復屋が狭量なせいですぐに諦めざるをえなかったバレンタインの贈り物。
「い、いいんですか?」
「いつも頑張ってくれているから」
 ありがとう、と。はにかむような微笑とその一言だけで、酷く落ち着かない。一方で“それ以上”はないのだと突き付けられているようで、胸が苦しくなった。傍目にも奇妙な顔をしていたのだろう、一拍遅れて、比奈が「十間くん?」と不思議そうな顔で覗き込んでくる。あきらは思わず仰け反った。
「い、いや、その――」
 思い出して、後ろに隠していた右手を突き出した。
「え?」
 きょとんとしている彼女の手に、それを押し付ける。
「あ、あ――その、大切な人にプレゼント渡す日だって――」
 それが一輪の薔薇であるというのは、少々狙いすぎたような気もしなくはないが。恥ずかしくなって、そっぽを向く。そのまま一秒、二秒。比奈の反応が気になって視線だけで様子を窺うと、彼女は珍しく呆けた顔で手の中の薔薇を見つめていた。
「比奈さん?」
 不安になって、呼びかける。と、比奈は遅れてぱっと顔を赤らめた。
「なんていうか、その、こういうのは……」
 辰史さんからももらったことがなかったから。
 消え入りそうな声が聞こえてくる。
「す、すんません。べったべたで」
「ううん、嬉しいよ」
 ありがとう。と、もう一度。薔薇色に染まった彼女の瞳を見つめて、あきらは吐息を零した。ああ、ずるい。世辞か、或いは社交辞令とでも思わせてくれれば諦めも付くのに、なにより正直な彼女の目が、そうでないと言っていた。恨めしく思いながら、反面でどうしようもなく喜んでしまっている自分を自覚する。ぞくり、と胸のあたりに忍び寄る衝動をどうにか誤魔化して、あきらはにかっと笑ってみせた。
「へへっ、これからもよろしくお願いします。比奈さん!」