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 信じられない。
 十間あきらは呟いた。
 信じられない。
 どうしてこうなったのかなんて、考えたくもなかった。
(ああ、そうだよ。この人たちの誘いに乗った俺が馬鹿だったんだ。いくら比奈さんを誘えなかったからって、自棄になってこの人たちの誘いに乗った俺が馬鹿すぎたんだよ。何を考えてたんだ、俺は。こうなるなんて、分かりきっていたことだったのに!)
 思いつく限りの悪態を思い浮かべる。クリスマスに予定の一つも入っていなくて寂しかった――なんていうのは、言い訳にもならない。

「自棄になった結果が、これだ。クリスマスの夜にサンタに殺される。こんなのってありかよ! くそ、三輪のおっさんなんか比奈さんにふられちまえばいいのに・・・・・・」
「でも三輪さんがふられても、比奈さんがお前のことを好きになってくれるかどうかはまた別の問題だよなー」

 心の呟きは、いつの間にか声に出てしまっていたらしい。横を見れば、瑠璃也が。がくがくと震えながら笑っていた。どうしてこんなときにまで笑おうとするのか、心底理解ができない。お気楽で変態体質な大学生のことなど、あきらは理解したいとも思わなかったが。

「とりあえず人間と付き合うこともできないようなあんたには言われたくねえよ! おっさんのついでにあんたも呪ってやる。一生女にもてねえ呪いをかけてやる。あっ、そんなことしなくても、瑠璃也サンは最初からもてませんでしたねェ!」
「おーまーえーはー! 何なの? あきらは、何なの? 俺のこと嫌いなの? 太郎ちゃんにはちょっと気を遣ってる感じなくせに、何で俺のことはそうやって蔑むの? ツンデレってやつなの? デレはどこ? なあ、どこだよ!」
「デレなんてねえよ。非モテが染るんで、近付かないでください。半径一メートル以内に!」
「残念! もう半径一メートル以内にいるから。あきらも一生報われない組だから。あっ、こんなことしなくても、あきら君は一生報われないんでしたねえええええ!」
「そういうこと言うから、あんたのことが嫌いなんだよ!」

 互いの胸ぐらを掴んで、言い合う――が。それ以上、二人の顔が近付くことはなかった。まるで喧嘩を窘めるように、顔と顔の間に割って入った鋭い銀色。ぎぎっと顔を動かして、その正体を確認した瞬間に、瑠璃也はばっと手を離して逃げ出した。さすがにこういう事態に慣れているだけあって、素早い。彼の行動の早さに舌を巻きながら、あきらは腕を伸ばした。両腕で足を絡め取るようにして、その場に引き摺り倒す。

「ちょっと! こういうときにそういう冗談はやめろよ! ていうかクリスマスに男に押し倒されるなんてトラウマになっちゃうから! たーすーけーてー!」
「冗談じゃねーっすよ。なに自分だけ逃げようとしてるんですか。ていうかマジ気持ち悪いんで、俺のために犠牲になって死んでください!」
「ひどっ! 緊迫した空気を和らげようという俺の気遣いも分からないの? 太郎ちゃんならもうちょっとこう、気の利いた台詞で返してくれるのに!」
「俺の中でまた太郎サンの株だけが上がりました」
「何それ!?」

 まったく不毛で無駄な言い合いだとは、あきらにも分かっていた。その暇があるなら、一秒でも早く逃げ出すべきであることも分かっていた。けれど如何せん、体が言うことをきかなかった。お気楽な大学生ともつれあって床を這うしかできなかった。心底気持ちが悪いことではあったが。
(瑠璃也サンじゃねえけど、マジでトラウマになりそう・・・・・・)
 比奈さん助けて、と口の中で呟く。と――

「そんなことやってる場合かよ!」

 言って、二人を助け起こしたのは太郎だった。
 彼はくだらない言い合いに加わることもなく、一人で元凶を探していたのだろう。その手にはクリスマスコンサートのパンフレットと、ケーキの上にあった砂糖菓子のサンタクロースが。助けられておいてそれを言うのは悪いと思いつつ、あきらは素直に呟いた。

「いや、ねえよ」
「う、うるさいな! 叔父さんはクリスマスなんてまったく興味なさそうだったんだぞ! ツリーやリーフすらないんだから! クリスマスに関係したものなんて、どれだけ探したってこの家の中には・・・・・・」

 無理があると自覚してはいたのだろう。心なしか頬を赤く染めて、太郎が捲し立てる。案の定、パンフレットを破いてみたところで、砂糖菓子を潰してみたところで何が変わるわけでもなかった。

「くそっ! 駄目か!」
「いや、ちょっとでも可能性があるとか思っていたんですか!?」
「思うわけないじゃないか!」

 逆ギレではないかと思うのだが、それを指摘するような余裕もない。一つずつ部屋を逃げてきたが、その部屋も無限にあるわけではない。いつ、この赤い老人が外へ出ることを思いつくとも限らない。
(他人のことなんて気にしてる場合じゃねーけど。でも、比奈さんだったらこういうときにも他人のことを気に掛けるよなぁ。ああ、比奈さん何してんだろ。今。三輪のおっさんと一緒なのかなァ・・・・・・。あー、やっぱこの赤いの外に解き放ちたい気分になってきた。世の中のカップルなんて、みんな襲われちまえばいいんだ)
 どれくらい時間が経ったのか、またボーンボーンと不快な鐘の音が聞こえてくる。縁起でもない鐘の音だ。最初にあれが鳴って、驚いた瑠璃也がゲームを中断させて、その場の空気も微妙になった。辰史が実家から取り寄せたという話だが、趣味が悪い。本当に、趣味が悪い。
 と。

「そうだ!」

 そう叫んだのは瑠璃也だった。いや、彼はあきらの心の声に同意したわけではなかった。言葉にすれば、もしかしたら同意してくれたのかもしれないが――そうではなく。助け起こされてからじりじりと部屋の入り口に向かって移動していた彼は、たった今、何かを思いついたらしかった。

「太郎ちゃん、この家になかったもの! あった!」
「え?」
「ホールクロック! あのホールクロック!」

 あっ、と。太郎の目が大きくなった。言うが早いか、瑠璃也は部屋から飛び出していた。太郎が後に続く。遅れないように、あきらも二人を追いかける。こちらの意図に気付いたのか、背後では赤い老人が何かを叫んだようだった。
 かち、かち、かち
 部屋の中には、ホールクロックの振り子の音が響いている。三人はそれに飛びつくと、むしり取るようにガラス戸を開けた。揺れる振り子の奥に、不自然な赤色が見える。夢中で手を伸ばして“それ”を掴めば、振り子は一瞬だけ動きを鈍らせた――その瞬間、赤い老人と奇妙な生物も、その体を僅かに震わせたように見えた。
 三つの手で“それ”を時計の中から引きずり出す。ざらりとした感触の・・・・・・紙だ。赤、肌色、茶色、黄色、緑――と、単純な色のみがやや黄ばんだ紙の上に塗りたくられている。それは一見すると何の変哲もない子供の落書きだった。しかし、三人は息を止めたまま、その絵をまじまじと見つめた。サンタクロースとトナカイ――多分、そうなのだろう――は、入り口から一歩も動かない。

「……太郎ちゃん、」

 瑠璃也が恐る恐る口を開いた。不自然な沈黙に耐えられなくなったらしい。太郎が顔を上げて、親友の顔を見返した。

「瑠璃也、あきら・・・・・・元凶、これだ」

 彼が言い当てた刹那、悪夢のようなクリーチャーは僅かにたじろいだようだった。太郎はひらりと絵をこちらに見せるように返して、続ける。

「これ、この絵。何に見える?」
「何って……」

 あきらは視線を紙の上に留めたまま、引き攣る唇で答えた。

「クリスマスツリー。あと、サンタクロース、と、トナカイ・・・・・・?」

 語尾が自信を失って僅かに上がる。太郎は肯定することを厭うようにゆっくりと首を縦に振った。

「そう、そうだ」
「この絵を描いたやつは、クリスマスが心底嫌いなんだろうな」

 思わず、呟く。太郎と瑠璃也も顔を見合わせて頷いている。
 黄ばんだ紙に描かれた絵は子供が描いたにしても酷いものだった。絵の上手い下手が問題ではない。クリスマスに怨みでもあるのではないかと思われるほどの、その禍々しさと言ったら。陰気な赤を纏った犯罪者のような顔立ちのサンタクロース。未確認ウイルスに寄生されでもしたかのような、かろうじてトナカイと分かるクリーチャー。刀は流石にまずいと思ったのか、それとも消せと諭されたのか、白いクレヨンで上から塗りつぶしたような形跡はあったが、勿論完全に消えているはずもなくぼんやり浮かび上がってしまって、余計に凶悪さを際立たせている。
 我が子が描いたならば、大抵の親が悲鳴を上げて失神するような、そんな絵である。では大人が子供のタッチを真似て描いた悪意ある絵なのかと言えば、そうではない。その酷い絵の右下には描き手の名がしっかりと記されていた。

 ――みわ ときふみ

(あー。あのおっさんにも平仮名で名前を書くような時代があったのか……って、そうじゃねえ!)
 現実逃避しかけた思考を、あきらは無理矢理引き戻した。瑠璃也に視線を向ければ、彼も酷く微妙そうな顔をしている。平仮名で書かれた名を視線で追っているのだろう。唇が「みわ、ときふみ」と、すべての元凶である男の名を紡いだ。

「三輪さんにも平仮名で自分の名前を書くような時代があったんだ……」
「そうじゃないだろっ?!」

 太郎が叫び返す。つまり、つっこむだけの余裕がある状況――ということなのだろう。一先ず安堵して、あきらも呟く。

「いやー、おっさんらしい絵っスよね。俺、自分の子供がこんな絵を描いたらとりあえずお祓いを頼みますけど」
「だよなー。お祓いせずに育った結果がアレってやつ?」
「あーなるほど」

 頷いて、

「で、どうすればいいんですか? これ」

 訊く。太郎は一瞬だけ躊躇したようだったが、部屋の入り口に佇む老人を見やって、紙を縦に引き裂いた。冷たい静寂の中に、びりりと大きな音が響く――

「あ、あ、あ……」

 その瞬間、サンタクロースは引き結んだ唇の隙間から音を漏らした。血走った目を大きく見開いて、天を仰ぐ。トナカイも、ぐるぐると喉を鳴らし首を激しく上下に振る――その光景はやはり悪夢以外の何ものでもない。



 思念が消えてから、どれだけそうしていただろうか。

「やれやれ、散々なクリスマスだったね」

 瑠璃也が疲れたように呟いて、ぐったりとその場に転がった。

「うん。叔父さんってば――」

 言いかけて、太郎は口を噤んだ。――酷く、疲れてしまったのだろう。何か一言でも愚痴を口にすれば、一言では済まなくなってしまう。あきらも、そんな気分だった。何を喋るでもなく、それぞれを労うわけでもなく、仰向けに転がったまま、無言で天井を見つめる。

「あのさ」

 ややあって口を開いたのは、やはり瑠璃也だった。

「うん?」

 太郎が応える。

「あの絵、だけど」

 ――あの絵には、三輪さんのどんな想いが込められていたんだろうな。

「さあ」

 太郎は左右に首を振ったようだった。

「分かるわけねーっすよ」

 あきらは投げ遣りに言って、大きく息を吐いた。
 あの男のことなど分かるはずがない。捻くれたあの男には、子供の頃から世界が違う風に見えていたのだろう。或いは、彼は本当にクリスマスが嫌いだったのかもしれない。

「瑠璃也が訊いてみてくれよ。これ持ってさ」

 破いた絵を重ねながら、太郎が言った。