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 ボーン、ボーン
 鐘の音が鳴り響いたのは、時計の長針と短針、そして秒針までもが十二のところでぴったりと重なり合ったときだった。音に、小さな画面に集中していた瑠璃也の肩がびくりと跳ね上がった。

「な、何?」

 あたりを見回して、訊いてくる。太郎は手元から視線を上げることなく、答える。

「ああ。口の間にある時計。ホールクロックって言うの? 狼と七匹の子ヤギで、子ヤギが隠れていたみたいなやつ。実家に電話して送ってもらったんだって、叔父さんが言ってた」
「へえ、何か気味が悪い音だね。三輪さんらしいけど」

 友人は頷いて――それでも何かが気になるのか、しばらくは音の方へ顔を向けていた。あきらが忙しなく手を動かしながら、そんな彼をゲームの世界に引き戻す。

「ていうか、瑠璃也サン。死にますよ」

 ぼそり、と。若干諦め気味に言った次の瞬間――

「おぅあっ!?」

 小さなゲーム機の中から、悲鳴が聞こえた。白銀色の竜が放つブレスに当たって、瑠璃也の操作していたキャラが軽く炎上し、そのまま動かなくなる。暗くなった画面には、Quest Failed の文字が浮かんだ。いわゆる多人数でモンスターを狩るゲームなのだが、マイペースな瑠璃也にはどうにも向かないらしい。先ほどから一人、凡ミスを繰り返しては力尽きている。今回は、その凡ミスですらなかったのだが。

「あー、また死んだ」

 白けたように言って、あきらが携帯ゲーム機を放り出した。

「瑠璃也サン、注意力散漫すぎ。俺と太郎サンがどんだけフォローしてもこれじゃ不毛っていうか。あんた農場だけやってた方がいいんじゃないっすか?」
「ひどっ! ちょっと上手いからって、あきらってば酷い!」
「まあ僕もあきらと同意見なんだけどね」
「太郎ちゃんまで!?」

 かちかちと無意味にボタンを連打しながら、瑠璃也が唇を尖らせている。

「いや、だってさー。今のはびびるじゃんかー。急にあんな気味悪い音がしたらさ」
「どんだけチキンなんですか。瑠璃也サン」
「どうせチキンですよぅ」

 拗ねたように言って、チョコレートの包みを開ける。それが何箱目になるのか――太郎は途中から数えるのをやめていた。異様に甘い物好きな友人から目を反らして、袋の中から烏龍茶を探す。

「まあね。正直、僕もああいうのは得意じゃないけどね」

 ペットボトルの蓋を開けて、空いたグラスにそそぐ。ついでに年下の青年の分もついでやりながらそんなことを零せば、

「あれ、太郎サンもそういうこと言うんですか?」
「何か俺と太郎ちゃんとの扱いに差を感じるんだけど、気の所為?」

 チョコレートを舐めながら首を傾げている瑠璃也は無視、らしい。あきらは唇を歪めて訊いてくる。太郎は苦笑で返した。思念を感じることのない彼にしてみれば、古びたホールクロックなどただの骨董品でしかないのだろうが。

「だってさ、叔父さんの実家にあったものだよ?」
「うっ」
「よっぽどの思念が込められているのかなと、思うんだよね。あの叔父さんが――お祖父さんと仲の悪い叔父さんが、わざわざ電話をして送ってもらうくらいだし」

 言って、ぬるくなった烏龍茶を一息で飲み干す。

「よっぽどの思念って?」

 心なしか顔を青ざめさせて――あきらが訊いてくる。

「たとえば、B級ホラーなサンタさんとか。地球外生命体なトナカイとか」
「瑠璃也サンは相手するのも面倒くせーので黙っててください」
「太郎ちゃん、あきらってば俺に冷たすぎるよな。結構傷付くんだけど・・・・・・」

 勝手に口を挟んできて勝手に泣きそうになっている親友は、やはり無視――すると本格的に拗ねてしまいそうなので、近くに転がっていたジュースのおまけを押しつけておく。

「わーい! スヌーピーのストラップ。可愛い〜・・・・・・じゃなくてさァ!? おかしくない? 太郎ちゃん、こういうのおかしくない?」
「まあ、だからと言って何が視えるってこともないとは思うけど」

 一人騒々しい彼は放っておくことにして、太郎はそう話を締めくくった。
 何かが視えるとは思わないが、噂をすればということもある。特にここは、蛟堂――何が起こってもおかしくはない、叔父の領域だ。注意をするに越したことはない。あきらも、すぐに同じことを思ったのだろう。それ以上、その話題を続けてくることはなかった。

「あ、あのさ。俺、トイレ」

 部屋が寒いというわけでもないのに体を震わせて、瑠璃也。

「あ、ああ。うん。行ってらっしゃい」
「漏らさないでくださいねー」
「漏らさないよ!」

 揶揄するあきらに噛み付くように返した親友の姿が、暗い廊下の向こうへ消えていく。微妙に開いた障子の隙間からは冷気が流れ込んでくるが、何となく――何となくきっちりと閉めてしまう気にはなれずに、太郎はその隙間を背中で塞いでいた。
 遠くから、何か音が聞こえるのは気の所為だろうか?
 多分、気の所為なのだろう。
 あきらがうん、と伸びをしながら言ってくる。

「太郎サンー、瑠璃也サンが居ない間にもうひと狩り、行きましょうよー」
「あ、ああ――」

 頷いて。けれど、今度ははっきりと――太郎は“それ”を聞いた。ひんやりと冷たい夜の風に乗って、陰惨な鈴の音が聞こえてくる。あきらも、遅れながら気付いたのだろう。怪訝に眉を顰めて、

「外っスかね。クリスマスだからって浮かれやがって・・・・・・」
「いや――」

 中だ。
 と、その言葉が声になることはなかった。
 尾を踏み付けられた猫のような物々しい悲鳴が、空気を切り裂く。

「瑠璃也!?」

 立ち上がって親友の名を叫びつつも、太郎はどこか冷静だった。何故か、そんな気はしていたのだ。同じように立ち上がりながら、あきらが――こちらも冷静に呟くのが聞こえて来る。「だから俺、トイレ我慢してたんですよね。会話の流れ的に、最初に部屋を出たやつが襲われるって。そんな気がしてたんで。何せここ、蛟堂ですし」
 と。まるで化け物屋敷のように言われるのは腑に落ちないが、太郎には反論することもできなかった。仮に反論の言葉を見つけていたとしても、廊下の向こうから聞こえてくる足音がそれを掻き消していただろう。「たたたったたった太郎ちゃんんんんん!」転げるように駆けて来た親友は勢いのまま居間を通り過ぎて、また戻って来ると、ばんっと障子を開け放った。

「太郎ちゃん、大変だ! 大変なんだ! 何が大変かって俺にもよく分からないんだけど、とにかく大変なんだ! つまり――」

 混乱気味にわめいている親友の背後を見つめて、太郎はじりっと後退った。ひんやりと足の裏から全身が冷えていく気がするのは、寒さのせいばかりではないだろう。視界の隅ではあきらが、零れんばかりに目を見開いている。

「サ、サンタ?・・・・・・」
「そう。そうなんだよ! サンタクロースなんだ!」
「いや、瑠璃也サン、後ろ・・・・・・」

 ぎこちなく首を振るあきらに、瑠璃也も振り返る――

「後ろ?」

 その瞬間、ひゅっと。鈍く輝く銀色が、彼の頬をすれすれに過ぎっていった。

「ぬああああ!?」

 今度は間違いなく転げてくる親友に、太郎もはっと我に返った。手を差し伸べて助け起こしてやりながら、訊く。

「な、何だよ! これ!?」
「俺が知るかよ!」

 もつれるようにして後退しながら、瑠璃也が即座に言い返してきた。中空にはすらりと伸びた物体が、冷たい光を放っている。それは酷く曖昧な形をしていたが、一番近いものの名で呼ぶとしたら〈刀〉だった。

「何でこれがサンタなんですか!? どうしてサンタが日本刀を持ってンですか!」

 もうわけが分からないのだろう。半泣きで、あきらが叫ぶ。
 刀を真っ直ぐにこちらへ突き出しているのは、赤い服を着た老人だった。白いファーのついた服は、絵の具をぶちまけられたかのように、凶悪な赤で染められている。白い髭に覆われた顔の中に穏和と呼べるような要素は一切なく、緑色の瞳は絶望の淵でも覗いてきたかのように、虚ろで暗かった。

「だだだだって、赤いし。髭だし」

 がちがちと歯を鳴らしながら、瑠璃也が答える。太郎は喉を引き攣らせながら、それでも言わずにはいられなかった。

「日本刀持ってるし。って? 馬鹿! サンタさんが日本刀持って入ってきたら一大事だよ! 馬鹿!」
「ば、馬鹿って言い過ぎだし! 太郎ちゃん、だんだん三輪さんに似てきたんじゃないの?」
「な、よりによって辰史叔父さんに似てきたとか! いくら瑠璃也でも言って良いことと悪いことがあるだろ!」

 言い争ううちにも、陰鬱な鈴の音が近付いてくる。
(っていうか、鈴の音?)
 親友の襟を掴んで揺さぶりながら、太郎はぎぎっと赤い老人へと首を廻らせた。あきらは、もう叫ぶこともできないらしい。そういえば彼は見た目に似合わずホラー系が苦手だった――と、今更思い出してみたところでどうすることもできないが。軽い酸欠に喘ぎながら、瑠璃也が震える指先で老人の背後を指さした。

「ととと、トナカイ?」

 疑問系。
 確かに、疑問だった。
 老人の背後からは重低音が。低い唸り声が聞こえてくる。獲物を狙う目つきでこちらを窺っているのは、リトル・グレイも真っ青な黒目がちの目。鋭くそびえる鋼鉄の角。口元から覗く、鮫のようにびっしりと並んだきざぎざの歯。口からふしゅうと紫色の毒息を吹き出しているそれがトナカイとは、悪夢のような冗談だった。

「なんで、トナカイ!?」
「だって、赤いし。鼻」
「こんな禍々しいトナカイがいてたまるかよ!」

 太郎が問い、瑠璃也が答え、即座にあきらが否定する――どの声に応えたのかは知らないが、トナカイ(?)は荒馬のように硬い蹄で畳を蹴りつけると、次の瞬間に奇妙な声で嘶いた。前足で畳を大きく蹴り上げ、角を突き出した格好で三人に向かって突進してくる。

「に、逃げろ!」

 最初に言ったのは誰だったのか、或いは三人同時に叫んだのか。襖を突き破るようにして、三人は隣の部屋に転げ込んだ。襖に張りつけられた漢詩は辰史の直筆だと聞いていたような気もするが、そんなことはどうでもいい。

「太郎ちゃん! み、三輪さんに早く電話! よく分かんないけどっ、よく分かんないから! 三輪さんじゃないと!」

 切実な瑠璃也の声に頷いて、太郎は携帯電話を掴んだ。リダイヤルで発信――耳慣れた着信音が響いてくる。奥の叔父の部屋から。

「え、あ、ええっ!?」
「携帯、忘れてったみたいだね」
「あのおっさん・・・・・・! 信じらんねえ!」

 あきらがカッと目を剥いて毒づく。けれど、瑠璃也はもう少しだけ落ち着いているようだった。すぐにパァっと顔を明るくして、

「そ、そうだ!比奈さんち!」
「な、なんで?」
「なんででも!」

 自分の携帯から、比奈に電話を掛けている。が、それも無駄に終わったのだろう。

「掛からない! 電源入ってない! ていうかマンションの電話も、繋がらないんだけど! これ、電話線引っこ抜いてある系?」
「そこまで拒否られてるって、何したんだよ! 瑠璃也!」
「あ、あのおっさん・・・・・・今夜は何としても邪魔させない気だ・・・・・・」

 ぎりっと歯軋りをするあきらの台詞が、何に向けられたものなのかは分からなかった。それぞれ好き勝手にわめいている友人たちの声を聞きながら、太郎はすぐさま我に返って、突き破ってきた襖を振り返った。襖に空いた大きな穴を、赤い老人がのっそりとした動作でくぐってくるのが見える。

「と、とにかく、あれの元凶を探さないと・・・・・・!」

 瑠璃也とあきらの背中を押しやって――もう一度、言う。

「元凶を探さないと、あんなのをクリスマスの夜に解き放つわけにはいかないだろ!」