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 三輪辰史は、恋人の手から携帯電話を取り上げた。


「今日は仕事の話も他の奴らの話も禁止。無しだ。駄目、絶対。何のために俺が携帯を置いて来たと思ってんだ。他の奴らに邪魔されることのない自由な時間を比奈にプレゼントしたかったからなんだぜ」

 ぷつり、と携帯の電源を切って床の上へ放り投げれば、床へ伸びた比奈の影がそれを追った。「御霊」と辰史に呼ばれるより早く、影は獣の姿をとって携帯を咥える。そうして向かう先は、宿主である比奈の許ではなかった。狐の形をした影は頭を挙げてその紅眼で辰史を見上げると、分かった風に頷いてみせた。

「良い子だ、御霊」

 主の携帯を口に咥えた影が、嬉しそうに目を細める。

「ああ。そうだ。良い子だから、それを持って向こうへ行っておいで」
「御霊!何でそう、辰史さんの言うことばっかり……!」

 比奈が悲鳴交じりに声を荒げる。が、御霊は叫ぶ宿主にも素知らぬふりで――と言うよりは、もしかしたら彼女の胸中を察してこそのその行動だったのかもしれないが――薄く開いたドアの向こうへ、するりと姿を消してしまった。
 ご丁寧にも、ぱたりとドアが閉められた後。完全な密室と化した部屋の中に広がるのは、何とも奇妙な静寂だった。「比奈」恋人はしばらく御霊の消えたドアを恨めしげに睨み付けていたが、呼ぶ声にはっと我に返ったようだった。落ち込んだ鳶色の瞳が、恨めしげに見上げてくる。

「辰史さん、あのですね。私、これでも狐憑きなんです」

 それは今更すぎる告白だった。首を縦に振って、辰史は頷く。

「知ってるさ。お前のことなら、何だって知っている」
「もう一つ知っておいて頂きたいんですけど、普通狐は宿主の言うことしか聞かないはずなんですよ。つまりはこの場合、御霊は辰史さんより私の言うことを優先するべきなんです」
「ああ。だろうな」
「じゃあ、何でこんなことになっているんでしょうか!」

 あうう、と落ち込む比奈の肩を辰史はそっと抱き寄せた。「そりゃあ、お前」とにやけそうになる口元を片手で隠しながら、答える。

「お前が俺のことを好きで好きでしょうがないからさ。御霊も、俺のことを主人だと思っている。違うか?」
「……よくもまあそんな恥ずかしいことを真顔で言えますね」
「恥ずかしいのはどっちだか。御霊の態度でばればれだぜ? 素直じゃない比奈ちゃんのはずかし〜い胸の内。今だって、二人きりになれて良かった。御霊が携帯持ってってくれて良かった、って思ってんだろ?」

 鎖骨の下辺りを人差し指でとん、と突けば、比奈はみるみる顔を赤くした。

「な、そんなこと・・・・・・!」
「照れるなよ。言ったろ? 俺の時間をくれてやるって。今日は俺がサンタクロースだ。お前の望みは何だって叶えてやる。いつものように電話で邪魔をされることもない。御霊だっていない。二人きりだ。次は、そうだな。こういうのとか、どうだ?」

 耳元で囁きながら、一枚の紙を差し出す。こういうシチュエーションが初めてというわけでもないのに初々しく固まっていた恋人は、それを見ると僅かに眉を顰めたようだった。「辰史さん、あの」無粋な質問を紡ごうとする唇を、人差し指で押さえて続ける。

「実印。持っているよな?」
「まあ、ありますけど。でも、辰史さん?」
「それを、ここに。ほら、ここにちょっと捺してくれるだけでいいんだ。なんてことはない、ただの紙さ。別に何を企んでるってわけでもないんだ」
「あの、辰史さん?」
「さあ、比奈。とりあえず捺してくれ。話はそれからだ」
「あの、婚姻届?」

 首を傾げる。その仕草も――こんなありきたりな言葉を使うのも躊躇われるが――可愛らしい。そうだ。可愛らしいのだ。この恋人は。と、誰に言うわけでもなく胸の内で力説して、辰史は照れたようにはにかんでみせた。

「いや、まあ、あれだ。クリスマスプレゼントに、お前の残りの人生まるっと欲しい――ってのは少しばかり強欲すぎたか」

 語尾は少し弱気に。ふっと目を伏せる。
 比奈がそういう表情に弱いことは、もう随分と前から知っていることだった。そうすれば大抵の我儘が通るということも、辰史には分かっていた。
(別に騙してるわけじゃねえし。これも愛だよ、愛)
 何となく後ろめたいのを、口の中で言い訳をして。ちらっと恋人に視線を向ければ、彼女は予想外にも婚姻届を綺麗に折り畳んでいた。やがて完成した作品を、掌に載せて披露してくる。

「辰史さん、鶴ですよ。鶴」
「お、上手いな」

 ぱちぱちと手を叩いて、

「って! 違うだろ! お前! なんつーことを!」

 ばっと、その手の中から鶴――もとい、婚姻届を奪い返す。
 この恋人は、時折信じられないようなことをやらかしてくれるから困る。責めるような目で見つめれば、彼女は困ったように首を傾げて言い返してきた。

「だって、そういう顔をすれば私がほだされるって思っているようなところが打算的ですし」

 思いの他、手厳しい。ぐさっと突き刺さる言葉にどうにか耐えながら、辰史は笑顔を作った。

「俺のそういうところも好きだろ? な?」

 訊きながら、逃がさないように指先を絡める。こんなこともあろうかと用意をしておいて正解だった。と、辰史はポケットから朱肉を取り出して、比奈の指先へ丹念に塗りつけた。「辰史さん!」と隣からは抗議とも驚愕ともつかない声が聞こえてくるが、照れだと思うことにする。鶴の羽の部分に“印”の文字が見えるようにしてあるのも、控えめな彼女なりの愛情表現なのだろう。多分――と重ねて自分に言い聞かせて、そこに朱い指先を優しく、しかし確実に押しつける。

「俺は、お前のそういう酷いところも好きだ」
「酷いですか? 私」
「酷い。クリスマスぐらい、もっとほだされてくれよ」

 抵抗することは、とうに諦めたのだろう。
 力の抜けた手を軽く握りながら、辰史は拗ねたように呟いた。ハンカチで指先を拭って、その手を口元へ運ぶ。手の甲に軽く口付ければ、小さくぼやく比奈の声が聞こえてきた。

「いつだって、ほだされすぎていると思うんですけどね。私」
「足りない。全然足りない」
「もう」

 困ったような吐息を零して、身を乗り出してくる。鳶色の瞳は、いつから赤く変わっていたのか。たとえようもない、吸い込まれそうなほどの赤。それを綺麗だと思う間もなく、唇には柔らかな感触が触れてくる。
 下唇を軽く食んで、また顔を遠ざけると、比奈は照れたようにそっぽを向いた。

「こういうの、すごくドキドキするんですから」

 胸のあたりを押さえながら、唇を尖らせる。その控えめな言い訳は、辰史の耳に入ってこなかった。まったく、この恋人は――本当に、時折信じられないようなことをやらかしてくれるから、愛おしい。

「比奈・・・・・・」
「心の準備ってやつが必要なんです。辰史さんみたいに、スマートになんて――」

 どうしようもなくなってしまって、まだ何かを喋り続けている彼女を腕の中へ閉じ込める。おそろしい恋人だ、と口の中で呟いて。

「俺は、お前の方が一枚上手だと思うぜ」

 耳元で囁く。
 何かとても大事なことを忘れているような気もしたが・・・・・・
(ま、いいか)
 目の前のこと以上に大事なことなどない。あっさりとそう思い直して、辰史は恋人の体をいっそう強く掻き抱いた。絡み合うようにして後ろへ倒れ込むが、革張りのソファが二人分の体重を受け止める。見上げてくる赤い目には、また別の感情が生まれていた。