三輪辰史の意外な一日(前)







 ――私的な相談に乗ってほしい。
 そう彼から言われたとき、三輪辰史は少なからず驚いた。この世に生を受けて二十八年。報復の依頼や思念絡みの面倒事を除いては、他人からの相談を受けることなどほとんどなかった辰史である。特に一般問題となると自分の価値観がまったく役に立たないことは辰史も自覚していたし、付き合いのある人は「猫の手を借りた方がましだ」と口を揃えて言ったものだった。目の前に座っている男も勿論、それを知らないわけではないだろうに。
 自分とよく似た、少し年かさの男の生真面目そうな顔を眺めながら、辰史はやはり驚いていた。先日、和解したばかりの従兄、丹塗矢丑雄だ。
 彼がこちらへ足を運んでくるのも、もう珍しいことではなくなってしまったが、それでも式神をけしかけ合うのではなく――こうしてカフェで顔を突き合わせているチュエーションは、それなりに新鮮だった。

「仕事は?」
「三郎殿が先日の一件をどこからか耳に入れたらしくてな。休みをもらってしまった。“うちの末っ子が世話をかける”と、まあそんなところだ。近頃は三郎殿の手に余るような案件も少ないから、俺もそろそろ独立を考える頃合いかもしれんが――」

 丹塗矢の家業は三輪の本家と同じく陰陽師である。元来は三輪と丹塗矢それぞれ独立していたというが、三郎が当主を継いだときに丑雄が補佐に入ることとなった。曰く、三郎は先代に比べると明らかな力不足である。曰く、丹塗矢の新しい当主も一人で家業を継ぐにはまだ若すぎる。成程、一族の老人が言いそうなことではあった。幸いにして性質の近い二人は、実の親子より上手くやっている。と、これは秋寅の談だったか。
 急な休みを得たことで、彼の妻も珍しく出かけたとの話であった。
 彼女の妻のことは、辰史も少しだけ知っている。
 羽黒家の長女で、名を伊緒里という。会話こそ交わしたことはないが、二人の結婚式で一度だけ顔を見た。古風な美人で年齢のわりに落ち着きはらっていた。ウエディングドレスよりも打ち掛け姿の方が似合っていた、そんな記憶がある。
 そういうわけで、この状況――というのも、なにやら腑に落ちない心地ではあるが。

「家内に酷く心配をかけてな。その、先日の件で」
「ああ」

 なんの前触れもなく、丑雄が切り出した。彼はこういう男だ。単刀直入。実直ではあるが直情的。いくらか名付けによる性質への影響も考慮すべきなのかもしれない、と辰史は思う。

「結婚して、初めて泣かれてしまった」
「それはいかんな」
「だろう。そう思うだろう」
「嬉し泣き以外で女に涙させるものではないとは、酔った御祖父様も言ったものだ」
「あれは嬉し泣きではなかった……気がする。どうにか謝罪だけはして宥めたものの、なんというか、気づいてしまったわけだ。俺は、女を喜ばせる類の言葉を知らなすぎると」

 運ばれてきたコーヒーに手も付けず、従兄は頭を抱えている。

「おまけに、なにをすれば喜んでもらえるかもよく分からない」
「……いや、お前ら十年くらい夫婦やってんだろうが」
「ああ。母の死から始まって十年間、支えてもらうばかりだった。一方で、伊緒里の望んでいるものを返せているかどうかは少し不安が残る」
「はあ」

 そうまで明け透けに語られてしまうと、こちらも返事に困る。
 辰史は困惑気味に頷いて、コーヒーを一口すすった。それから、苦悩している従兄に訊ねる。

「で、お前は何故それを俺に相談しようと思ったんだ? どういう風の吹き回しだよ」
「お前は例の狐憑き――いや、こういう言い方はよくないな。天月比奈に、臆面もなく恥ずかしげもなく年甲斐もなく顔を合わせれば愛情を伝えているのだと、太郎から聞いてな」
「……臆面もなく恥ずかしげもなく年甲斐もなくて悪かったな」

 年甲斐もなく、というのは余計だ。
 毒づいて、悪気もなく喧嘩を売ってきた彼を睨む。

「つうか、秋寅に聞いた方が早かったんじゃないか? お前らいつも連んでるだろ」
「駄目だ。あいつは女性に対して、お前以上にデリカシーがない。無神経という言い方をするのは気が引けるし、俺が言うのもなんだが――お前とは違う意味で共感力に欠けるだろう、あいつは」

 これも、悪気はないのだろうが随分な言い方ではあった。丑雄の清々しいほどの率直さに半ば呆れながら、これに関しては辰史も同意した。

「まあな。確かに、兄貴は清々しいくらい他人と自分を切り離してっからなー……」

 どんな意見も否定しないが、肩入れもしない。常に他人への選択肢を示し続ける一方で、結果への介入は好まない。それが、あの兄だ。本人は女好きだと公言しているが、そういう意味では女との相性はすこぶる悪い。
 ああ、と丑雄は頷いた。

「しかも、あいつの最長交際期間は二ヶ月だ」
「卯月よりましだな。あいつは二週間」
「お前は、彼女と四年も付き合っているのだろう。その点で、俺に選ぶ余地はなかった」

 多少は不本意だったのか、丑雄が溜息を一つ挟む。
 それから気を取り直したように軽く頭を振って、

「お前と彼女は、どうやって出会った?」

 そう、やはり前触れもなく訊いてきた。

「どうやってって……」

 辰史は逡巡する。
 正確な始まりは幼い頃の恋心だが、先見の話題を出せば話がまたややこしくなりそうではあった。迷った末にそこは伏せることにして、答える。やや、胸を張って。

「俺と比奈の出会いは運命的だぞ」
「ほう?」

 運命、という単語に眉を寄せながらも丑雄が訊き返してくる。

「俺の一目惚れだった。で、困ってたあいつを颯爽と助けた。どさくさに紛れて告白もした。それから粘って、信頼と愛情を勝ち取った。いわゆるメルヒェン型ってやつだ。近いのは、そうだな。眠り姫とか白雪姫かな」
「いや、童話はどうだっていいんだが……」

 物語に興味のない従兄は、いまいちぴんと来ない顔だった。
(理想家のくせに、そういうとこばっか現実主義なんだよな)
 辰史は肩を竦める。

「そういや、お前らは見合いだったか」
「ああ。結婚以前に恋愛感情を育てる期間がなかった。家のためというわけではなく、一人の人間として幸せにしたいと思ったからこそあいつとの結婚を承諾したわけだが、結果的には俺の方が何倍も救われてしまって不甲斐ないばかりだ」
「お前が謙虚な言い方をすると、相対的に自信家な俺が馬鹿っぽく見えるからやめろ」
「なんだ、馬鹿っぽい自覚はあったのか」
「……時々、本当に悪気がないのかお前を疑いたくなる」

 いや、むしろ悪気のない人間ほど質が悪いという好例か。
 そんなふうに思いつつ、辰史はふむと唸った。従兄が会話の隙間に挟んでくる毒は気になるものの、他の知り合いたちに比べて特別酷いというわけでもない。そういう意味では神山などの方が余程遠慮なく貶してくるし、太郎もあれでいてなかなかに厳しい。
 ともあれ今は実のある話をしようと、口を開く――
 
「そうだな。お前みたいなタイプは雰囲気の作り方とかよく分からねえんだろうし、ストレートに伝えるのが一番だと思うぞ。俺も、特にイベントがないときはそうする」
「む……。参考までに、お前の雰囲気の作り方というやつを教えてみろ」

 分かってはいたが、負けず嫌いな男である。
 苦笑しながら、辰史は答えた。

「つまり二人きりで、なんとなくまったりした状況になったらさりげなく相手に触れるわけだ。で、比奈が俺にこう訊いてくる。“どうしたんですか、辰史さん?”そこで、俺は答える“いやいや、分かってんだろ”緊張しちゃって可愛いなァとかなんとか思いつつ、更に距離を詰める。とにかく距離を詰める。で、相手がふっと目を逸らしたら訊き返すわけだ。“どうしたんだ、比奈ちゃん”“辰史さん、分かっていてやっているでしょう”“俺がなにを分かってんのか、比奈の口から聞きたいな”“もう、辰史さんったら意地悪ばっかり……”“俺のそういうところも好きだろう?”と――」
「……俺は今、お前に相談したことを後悔し始めている」
「なんだ? レベルが高すぎて付いてこれないか?」
「いや、天月比奈がお前のやり方で本当に喜んでいるのか疑問を感じてしまった」

 苦く呟いて、丑雄は初めて――もう冷めてしまった珈琲に口を付けたのだった。