三輪秋寅の退屈な一日(前)






 実のところ、三輪秋寅はその男が苦手だった。
 古書店〈幻影書房〉の主。正体不明、年齢不詳の男。鬼堂六。弟が密かに思念ではないかと疑っているというのも納得で、男にはどこか人外じみた雰囲気がある。
 祖父の紹介で彼と出会ったのは二十年も前の話になるが、秋寅がまだ少年と呼べる年頃だった頃から鬼堂六という人はそうだった。若すぎることもなく、年老いていることもなく、ただ美しく、人形よりも人形めいた顔でこの店に存在している。

「どうも、六さん。どう? 元気にしてた?」

 まずは当たり障りなく、そんな挨拶を一つ。彼は微笑みを深くして、頷いた。

「ええ、まあ。秋寅くんはどうです? 商売の方は」
「それなりだよ。最近、また大口の顧客が付いたから稼がせてもらってる」
「へえ。それはそれは、尊さんが聞いたら喜んだでしょうに」

 こちらの複雑な胸の内を知ってか知らずか――いや、知っているだろうと秋寅は思う。末の弟がストーリーテラーであることを好むように、彼は常に読み手であることを好んでいる節がある。登場人物が胸の内に秘めるもののなにもかもを知りながら、物語が次にどう転ぶか眺めている、そんな雰囲気もある。悪趣味であると、これも本人にはばれているのだろうが、秋寅はそう思わずにいられない。
 常に人形じみた美しい微笑みを湛える書店の主人は、秋寅の苦笑など意に介さず続けてきた。

「それで今回はどういった理由の帰省ですか、秋寅くん」
「従兄さんの誕生日が近いから準備をって思ってね。辰史にも協力してもらおうと思ったんだけど店にいないから、六さんなら居場所を知ってるかなって。ついでに営業も兼ねて」
「それは助かります。辰史くんから買うと、高いんですよ。三十枚ほどお願いできますか?」
「はいはい。毎度ありがとうございます〜」

 言いながら、いつもの鞄からクリップで留めた呪符を三十枚数えて彼に渡す。本業は調薬士だが、最近では手慰みで作る呪符も評判がいい。式を使役し術を繰るより、物作りの方が向いている――と気づいたのはいつだったか。高校に入学する頃にはもう、陰陽道に関してはどうしようもなく才能のない自分に気づいていたような気はする。
 鬼堂は呪符を受け取りカルトンの上に代金を載せると、少しだけ済まなそうな顔をしてみせた。

「それで、辰史くんの居場所なんですが――」
「そうそう、どこか知ってる?」
「すみません。わたしも知らないんですよ。うちが店を開ける頃にはもう、隣は休業の札が掛かっていましたので」
「それはまた……」

 珍しい、と秋寅は思わず素に戻って呟いた。
 幼い頃はなにやら夢を見るのだという理由から、そして今は恐らく自堕落な生活から――ずっと、朝の苦手な弟である。これはデートか、と弟が先日紹介してくれた“恋人”の顔を思い浮かべて、どうしたものかと考えていると、鬼堂がまた声をかけてきた。

「あ、立ち話もなんなので――そのあたりの脚立にどうぞ。紅茶でも入れますよ。それとも、珈琲の方がいいですか? 緑茶も、あるにはありますが」
「……もしかして六さん、暇なの?」
「まあ、見ての通りです。瑠璃也くんに店番を頼もうと思ったんですけどね、今日はちょっと用事があると断られてしまいまして」

 彼はにこにこと笑っている。
 秋寅としては帰りたいというのが本音ではあったが――悲しいかな、長男に生まれついた性で無意識に「じゃあ、少しだけ」と調子よく脚立を引き寄せてしまっている。
(まあ、話してるうちに辰ちゃんか太郎が帰ってくるかもしれないし……)
 と思いつつ、秋寅は木造の脚立に腰を掛けた。その間にも鬼堂は奥の部屋からティーセットを持ち出して、カップに紅茶を注いでいる。爽やかなマスカットの香りが鼻腔を突いた。

「どうぞ、秋寅くん」
「ども。六さん」

 受け取って、カップに口を付ける。

「そういえば、ご実家の方はどうです。様子は」
「変わらないよ。姉さんはほとんど顔を見せないし、卯月も相変わらず、父さんと母さんは少しそわそわしてるかな。ほら、少し前に辰ちゃんが爆弾持って帰ってきたから――」
「比奈さんですか」
「そ」

 秋寅は頷いた。

「よりにもよって高天の黒狐ってねぇ。勿論、俺と卯月は辰ちゃんの味方だけど、特に父さんは気が気じゃないみたい。ま、そうだよね。あの家の生きづらさを父さんは身を以て知ってるわけだから。まだ家族以外には話してないみたいだよ」
「そうですか」
「とはいえ、俺は大丈夫なんじゃないかって思うんだけどね。異端であるとはいえ狐憑きなわけだし。白狐より攻撃的だなんて、うちのカラーにもぴったりでしょ。なんせ、力を尊ぶ一族だから」

 言いながら、少し眉を寄せてしまった。
 慌てて笑顔を作り直して、秋寅は続ける。

「ま、そんな感じ。うちが問題を抱えてるのはいつものことで、もう珍しくもないよ」

 そうだ。珍しくはない。これはもう、秋寅が幼い頃からそうだった。
 気づけば父と祖父の関係は酷く気まずいものになっていたし、秋寅は早いうちから原因の一端を自分と姉が担っていることにも気づいていた。思念を視る目以外の異能者らしき要素を持たない姉は、物心ついたときにはもう一族に馴染むことを諦めていた。いつでも目立たないよう隅で小さくなっている姉を眺めながら、秋寅は――辰史が生まれる前、まだ自分以外の後継者がいなかった頃の幼い自分は、ああはなるまいと躍起になったものだった。
 ――人には、常に選択する余地が残されている。お前にも、選択する自由はある。
 いつかの折に、祖父がそう言った。いくつもあった教えの中で、秋寅は何故かそれだけを鮮明に覚えていた。選択。選択の自由。自由という、その言葉に惹かれたのかもしれない。なんらかの希望も可能性も、常に自分の手の内にある。人生の一寸先を決めるのは常に自らの選択なのだと、思えば祖父の言葉が秋寅の生き方の指標となったのだと言っても過言はなかった。そんな秋寅にしてみれば、最初から諦めている姉は、初子は、怠惰に過ぎるように思われた。そんな彼女が人生で初めて自分から選択したことが、幼い弟と妹を残して家を出ることだった――というのも、まずいように思えた。
 確かに三輪家はおかしい。けれど、おかしいなりに家族らしくある努力をすべきではないか。祖父に、両親に思うところがあるのならばいっそうのこと妹と弟にはいくらか一般的な兄弟としての役割を果たしてやるべきではないか、と。それを口に出したことはないが、そういった意味では誰より兄らしくあった丑雄のことを、秋寅は尊敬していた。

「秋寅くんは、昔から変わりませんね」

 鬼堂が微笑む。
 辰史ならば、知った顔でと噛みついたかもしれない。けれど秋寅はそんなことで目くじらを立てたりはしない。思えば怒りの記憶というのは、やはり姉が家を出た日が最後だった。いや、もしかしたら瞬間的に激高したことはあるのかもしれないが。自分でも不思議なほど感情が長続きしない、それが秋寅の常だった。

「そうかな。そうかも。俺にしてみれば、六さんの方が変わらないように見えるけど」

 ああ、上手くない言い方だ。と、秋寅は珍しくそんなことを思う。
 どうしてか、彼の前では思考が鈍くなる。いつものようにとりとめもなく思考を言葉にするだけの余裕がなくなる。自然、口数も少なくなってしまう。

「ええ、そうでしょう。わたしは不変ですから」
「それって、存在がってこと? 六さんの謎に迫るってやつ?」
「いいえ。君がそうあろうとしているのと同じように、わたしもこうあろうとしている。ただ、それだけの話なんですよ。わたしは君が思うほど得体の知れない存在ではありませんし、辰史くんほどとは言わないまでももう少し打ち解けてくれたら嬉しいなと――」
「そういうところ、やっぱり得体が知れないって思うんだよね。俺」

 彼の望み通りに本音を一つ。呟いて、また紅茶で舌を湿らせる。甘い香りを呑み込んだあとに、舌先には微かな渋みだけが残った。やはり今日という日はどうにもよくない。せめて足を運ぶ前に連絡の一つも入れるべきだったなと思いながら――もっとも、連絡を入れたら入れたであの弟は“兄が来るから”と店を不在にしてしまうような性格なのだが――秋寅は、面白くない心地で目の前の男の美しい顔を眺めていた。