名島瑠璃也の憂鬱な一日(前)








 始まりは、中間考査の結果が発表される一週間前。大学の友人たちとある種の賭けをしたことに端を発する。評価AAの数が一番少なかったやつにペナルティを――と、それを言い出したのは誰だったか。村松洋だったような気もするし、自分だったような気もするし、別の友人だったような気もする。ただ、太郎が苦い顔でやめた方がいいと言っていたことだけは覚えている。
(太郎ちゃんは賢明だよ。でも、でもさ。賢明な意見ってのはいつだって退けられる運命にあるっていうか。昔話でもそうだし……)
 結局のところは、親友が正しかったのだ。自分が馬鹿だった、と瑠璃也は認めていた。話に乗ってきたのは渋々参加した太郎を含めて七人。いや、真面目な親友がペナルティを受けるような事態になるとは思っていなかったから六人か。まさかその中で最下位になろうとは。
 つまり、結果を見誤ったのだ。単位を落とすほどではないにしろ、ぎりぎりではある講義の欠席日数と遅刻の回数。そのことを、すっかり失念してしまっていた。それが、敗因だった。

「うう……筆記試験とレポートは自信あったのになぁ……」

 携帯電話を片手に、呻き声も零れてしまうというものである。

「だってさ、よく考えてみたら馬鹿げてるじゃんか。ほんと。女装なんて……」

 女装。そう、女装だ。女性の恰好をして、カフェで一枚写真を撮ってくる――そんな罰ゲームを思いついたのは、やはり自分ではなく別の友人だったに違いない。鞄の中には、こういうときばかりフットワークの軽い友人たちが用意してくれた女性ものの服とウィッグ。一人では通報されかねないと太郎に同行を頼んだが、いらぬ誤解を招くのも嫌だからと断られてしまった。他の友人たちも各々面白がって、悩んだ末にあきらにまで相談したが、こちらも返事はつれなかった。曰く「馬鹿な大学生に付き合ってる暇なんてねーっすよ」と。事実ではあるのだろうが、それにしてもあんまりな言い方ではないか。
 彼に断られて、次に比奈を頼ろうと思ったのはそういう事情があったからだった。当てつけと言えば、そうなのだろう。太郎に言えば――比奈さんに迷惑をかけるなよ――と、また窘められそうではある。けれど、どうしようもないのだから仕方がないと、瑠璃也は半ば開き直っていた。
 意を決して、彼女の、天月比奈の番号を呼び出す。
 彼女が休みであることは、あきらから聞いていた。珍しく予定が入っていないのだとも。
 
「もしもし、瑠璃也くん?」

 やがて呼び出し音が途切れ、比奈の声が応じた。
 はい、俺です。から始まって、あまりにくだらない、そして然程長くもない事情を打ち明ける。すると彼女は予想通り一言――うん、付き合うわよ。と、言ってくれたのだった。


 ***


「さ、まずは足。臑毛を剃ろう?」

 シェーバーを片手に、彼女がそんな台詞を吐こうとは誰が予想できただろう。
 少なくとも瑠璃也は予想していなかったし、ほんの少しだけ夢を裏切られたような気にもなった。ああ、比奈さんでも臑毛とか言うのか。と、やや落ち込みながら――どうにでもしてくれという心地で彼女の指示通り臑毛を剃らされ、友人の趣味かと思われるニーソックスとミニスカート、フリルのついたシャツ。それから、ブラジャーにパッドまで取り出したときには流石の比奈も苦笑いだった。
(まったく、あいつらときたら……)
 どこでこんなものを手に入れたのかと言いたいところだが、彼らが嬉々としてそれらを用意する様子はなんとなく想像できてしまった。毛先にカールのかかったロングウィッグは洋の趣味だろう。それを瑠璃也の頭に被せると、比奈は一メートルほど離れた場所から全身を眺めて、ぽつりと呟いた。顔が浮くわね、と。

「可愛いんだけど、やっぱり男の子っぽい。お化粧、する?」
「あ、いや、いいです。ちょっと行って写真撮って終われれば、それでいいので……」
「うん、しようか」

 彼女は紛れもなく、あの男の恋人だ。そう痛感させられた瞬間だった。それから更に三十分。めちゃくちゃに顔を弄られた瑠璃也は、外へ出る前から心が折れていた。鏡を見ると、いっそう泣きたくなった。不格好だった――わけではない。これが自分かと驚いてしまう程度にはそれらしい顔に作りかえられて、女性の秘密を知ってしまった気分だった。世の中の女性が言うビフォアアフターの意味など、知りたくもなかった。
 また一つ夢が壊れたなと思いながら、けれどなにかやり遂げた顔の比奈を見ると文句も言えなくなってしまった。彼女は輝く笑顔で、こう言った。

「瑠璃也くん、可愛い!」
「……えっと、ありがとうございます?」

 と言う他なく。また、お前は可愛いなんて言われたことないだろ――と、あきらに言ってやりたい気分でもあり。開き直ったというよりは、もう諦めるしかなかったのだ。
 不満の一つ二つを零したところで、勝手にしろと突き放す比奈でもない。が、むしろ素直に謝ってくれる彼女が想像できてしまっただけに却って文句は言いにくい。そもそも彼女の優しさをあてにして泣き付いてしまった引け目もあった。
(はあ……なんでこんなことに)
 鏡の中で項垂れる、やや長身の乙女もどき、つまりは自分を眺めながら溜息を一つ。
 その憂鬱な唇さえもいくらか艶めいて見えることにぞっとしてしまう。友人たちもがっかりするに違いない。この手のペナルティは似合わないこと前提で、滑稽さを笑うものではないか。仕方のないこと、この期に及んで往生際が悪いと思わないではないが、それでも瑠璃也は考えてしまう。とはいえ予想外にも女装が似合ってしまった事実を思い悩んで一日を終わらせるわけにもいかないので、比奈の仕度を待って、駅の近くにオープンしたというカフェへ足を運ぶことにした。

「一度、緑さんと行ったのよ。チーズケーキが美味しかったの。ええと、瑠璃也くん――瑠璃也くんでいい? 女の子っぽく呼んだ方がいい?」

 可愛らしく小首を傾げる彼女に、瑠璃也はかぶりを振る。慣れないミニスカートが酷く心許なくて、それどころではなかったが。

「いや、えっと、そのままでいいです。大丈夫です」
「そう。きっと、瑠璃也くんも好きだと思う。緑さんはね、ガトーショコラを頼んで。わたしも一口もらったんだけど、甘さが強かったから。瑠璃也くん、甘い物好きでしょう?」
「ええ、はい」
「稲荷運送のみんなにも差し入れで買っていったんだけど、十間くんは甘すぎるって。前は休憩時間にカフェオレだったのに最近はブラックを飲むようになって、ああこうして大人になっていくんだなって思ったら――少し、寂しいっていうか」
「いや、それは」

 比奈の前だけだ。
 十間あきらは相変わらず珈琲よりカフェオレやココアの方が好きだ。それを打ち明けてしまうのは、流石に躊躇われた。スカートの裾を両手で押さえながら、瑠璃也は曖昧に濁した。

「あーえっと、あきらも思うところがあるんだと思いますよ。大人っぽく見せたい相手とか、理由とか、いろいろ。複雑な年頃なんで……」
「そうね。十八歳って、多感で背伸びをしたがる時期だものね」

 と頷きつつ、彼が背伸びをしたがる理由を考える気はないらしい。
(あきらもつくづく報われないな……)
 いくらか同情しつつ、やはり今はそれどころではないのだが。
 悪ふざけがすぎる友人たちにも小さじ一杯分程度の良心は残されていたのか、パンプスにヒールが付いていないのは幸いだった。もしもヒール付きのものを履かされていたら、店に辿り着くまでにへとへとになってしまっていたに違いなかった。或いは転んで、必死に隠しているスカートの中身を露出してしまったか――背筋を冷や汗が伝う。日頃はあまり気に留めないが、颯爽と歩いて行くスカートの女性に尊敬の眼差しすら送ってしまう。
 瑠璃也はちらり、と隣を歩く比奈を見つめた。

「どうしたの?」

 すぐ視線に気付いて、比奈が訊き返してくる。

「いえ、比奈さんは歩きにくくないのかなって。その、スカート」
「慣れないと、やっぱり不安なもの?」
「すごい不安ですよー。こう、いつぶちまけちゃうか――」
「もしかして、下も女物?」
「まさか! ボクサーですよって、なに言わせるんですか! 比奈さん!」

 言ってから、瑠璃也は少しだけ顔を赤らめた。

「いや、言わせたかったわけじゃないけど……」

 一方の比奈は特に恥ずかしがるふうでもなく、苦笑している。この分だと下ネタの一つ二つにも動揺はしないのだろうなと――言う気はないが――思いつつ。想像と違う彼女の反応に、瑠璃也はまた溜息を零した。