ままならない話2(後)







 ***



「……本家の長男殿になにか言われたんですか?」
 と、丹塗矢伊緒里は目の前の光景を眺めつつ、やや疑心暗鬼に訊ねた。夕食の支度はいいから少し外の空気でも吸ってこいとやけに外へ追い出したがるので、なにかあるのだろうなと予想してはいたものの。すっかり準備の整った食卓でエプロンを着けたままの夫が、その生真面目すぎる顔に愛想笑いのようなものさえ浮かべて出迎えてくれるというのは――それなりに新鮮ではあった。
「いや、バレンタインだからな。日頃の感謝を込めて、というやつだ」
「今日それを伝えるのは、わたしの方でしょう」
「いや、最近では逆チョコが流行っていると――」
「それも長男殿が?」
 まさかもう邸の中にいるのではないかと伊緒里がちらちらあたりを見回すと、丑雄は愛想笑いを苦笑に変えた。
「お前の気持ちは分からないではないし、いつも秋寅に好き勝手させてばかりで悪いとは思っているが……今回の発案はあいつではないし、こちらに来させもしないから安心してくれ」
「そうですか」
 それはそれで腑に落ちないものがある。なにせ彼という人は、こういった突拍子もないことを思い付いて実行するような人ではない。とはいえ、こういった状況で流されてしまわないあたり自分は可愛げがないのだろうなと――卑屈になっているわけではなく、一つの事実としてそう思う。
「あなたが料理を作ってくださるのは久しぶりですね」
 テーブルの上には、盛りつけまでレシピに従ったような見栄えのいい料理が並んでいた。丑雄自身はそんな自分の料理を味気ないといって嫌うため必要がない限り作ろうとはしないが、伊緒里はどこまでも彼らしい夫の料理が好きである。好き。思えば自分の嗜好をはっきりと口にすることに躊躇いがなくなったのは、丑雄と過ごすようになってからだ。名家に嫁ぐ女には必要ないと切り捨てるよう教えられてきた様々なものを、彼は逐一拾い上げ大切にするようにと言ってくれた。
 二人きりの食卓も、もう随分と長い。丑雄の向かいに腰を下ろして食事の合図を待つ。手を合わせ、丁寧にいただきますと言う。十年近く経っても決してそれをおざなりにすることのない彼の生真面目さが、伊緒里はやはり好きだった。
 西京焼きとひじきの煮付け、すまし汁。日頃は丑雄の好みに合わせて洋食を作ることが多いだけに、新鮮ではある。彼自身は蛟堂での修業時代に祖父に合わせた和食を作ることが多かったそうで、一通りのものは作れると言うが。
 向かいの丑雄は食事に手を付けず、どこか落ち着かない様子でこちらを窺っている。苦笑を呑み込んで、伊緒里は椀を手に取った。三つ葉が浮かんだすまし汁に口を付ける。
「美味しいですよ、丑雄さん」
「そうか」
 ほっと胸をなで下ろしつつ、彼も一口――
「……やはり俺は自分の作ったものより、お前の料理の方が好きだな」
「それほど変わりはしないでしょう?」
「味気ないような気がする。最近では外で食べる大抵の料理にもそう感じてしまうが」
 納得のいかない顔でしきりに首をひねっている。
「あなたという人は……」
 十年近く経っても慣れないなと思いながら、伊緒里は軽く口元を押さえた。
「……本当に。それで無自覚だと言うんですから」
「ん?」
 自分では気が利かないと言いながら、妻の喜ばせ方を知っているのだからずるい。
「嬉しいんですよ。とても。その……わたしがもしもっと夢見がちな少女だったら理想に思い描いていた、そんな旦那様だと、思います」
 気恥ずかしく思いながらもそっと呟くと、丑雄は苦笑してみせた。
「お前は控えめすぎる。もう少し欲張ってもいいくらいだ。俺は秋寅のように女の喜ばせ方を心得ていないし――」
「誠実さの証でしょう」
「性格上、お前に我慢をさせてしまうこともしばしばだ。辰史のようにとにかくお前を優先すると約束してやることもできない」
「あなたのその、責任感の強いところが好きなんです」
 言ってから目を伏せたのは、そのやり取りが酷く気恥ずかしく感じられてしまったからだ。照れを誤魔化すようにそのまま黙々と食事を続けていると、ややあって声が。
「……やれやれ。“大事な女を幸せにしてこそ”か。難しいな。俺ばかりが幸せにしてもらっているような、そんな気がする」
 情けないような、一方で幸福を含んだ溜息に、伊緒里はぽつりと答えた。
「それはこちらの台詞ですよ」






END
似たもの夫婦。