ままならない話2(前)





 人生においてままならないことというのは、まあそれなりにある。人からは順風満帆なように思われている節はあるものの、どうにもならない理不尽を前に挫折した経験というのも一度や二度ではない。たとえば弟の死なんかは初めて感じた理不尽であったし、末の従弟の存在というのもそうだ。歳の近い従弟との関係に気まずいものを感じてしまった学生時代も同じく。後悔はしていないが、結婚に関してもそうだった。
 それはともかくとして。
「どうしたものか」
 細かく書き出してみたいくつかのプラン――計画書を前に、一人呟く。丹塗矢丑雄は困っていた。一番の問題をすっかり失念していた、と今更ながらに気付いたのだ。
 二月十四日。バレンタインデー。
「知ってるか、丑雄。今年は男が料理をして女を出迎えるってのがトレンドらしいぜ」
 その手の――聞いたところでだからどうしたとしか言いようのない――話題を振ってくるのは丑雄の身近では二人。一人は従弟、三輪秋寅。そしてもう一人が、今回の事の発端となった三輪辰史である。和解をしてからは必要があれば連絡を取り合うくらいにはなったが、彼は相変わらず唐突で独りよがりだ。傲慢で金に汚い従弟なりに恋人のことは大切にしているようだが、どうにも過保護かつサプライズのピントがずれているため、丑雄はなんとなく従弟の恋人である狐憑きに同情している。
「……お前、手料理で迎える気か? 彼女を」
「そうだが。なにか不都合でもあるか?」
「いや、不都合というか。お前の料理が不都合というか。なんにせよ、やめておいた方がいいと思うぞ。一度彼女を入院させた俺が言うのも気が引けるが、間を置かず二度目の入院生活をおくらせるのは流石に可哀想だろう。下手をしたら婚約解消ということもありうる」
「はあ? なんの話だ」
「お前の料理で死にかけたことを、俺は忘れていないという話だ」
「お前なー。あれから何年経ったと思ってんだ。十年だぞ。十八才のガキが二十八になったんだ。料理の一つや二つ、とっくに習得済みに決まってんだろうが。あと多分、お前がぶっ倒れたのは風邪とかなんかそういう感じで俺の料理は関係ない」
「…………」
「お前も普段は家のこと、奥方に任せっきりなんだろ。そういうの、最近は嫌われるらしいぞ。大事な女を幸せにしてこそ男だ。つうかお前はいらんところで空気を読むよな。親父や兄貴のくそしょうもない愚痴にわざわざ付き合ってやって、だからやつらが調子に乗るんだってそろそろ学ぶべきだぜ」
「……俺がくそしょうもない話に付き合わないような人間だったら、まっさきにこの通話を切っている」
 どうしようもなく、また救いようもなく傲慢な従弟の戯れ言に付き合ってやった。
 そのときは、それくらいの気持ちだったのだが――後から、どうにも気になってしまった。果たして妻は本当に不満を感じていないのか。
 傍目には出会った頃から変わらないように見える。言うべきことははっきりと言うし、理不尽を呑み込む質でもない。とはいえ伊緒里はどちらかといえば我慢強い方ではあるし、気丈なだけに甘えるのも苦手である。考えた末に不安が勝って、辰史の戯れ事に踊らされた。
 まあ、それは別に構わないのだが。
「ああ……すっかり忘れていた」
 もう一人の従弟の存在を、だ。
 三輪家の長男、三輪秋寅。恋人馬鹿な弟とは対照的にこちらは勝手気まま気まぐれで、女からは避けられるタイプである。よく傷心だなんだと言っているわりには堪えているふうもなく、たまにふらりと帰省しては身内を引っかき回していく。昨年も、そのまた前の年も彼が訪ねてきたことを思い出して、丑雄は頭を抱えた。
 伊緒里のために料理を作っても、あの従弟が来れば水入らずというわけにいかない。
「かと言って、来るなよと言えば逆に来たがるようなやつだ……」
 どうしたものか。
 唸る。まあ、どれだけ唸ってみせたところで選ぶことのできる選択肢はそう多くなかったが。意を決して、丑雄は携帯電話を手に取った。
「もしもし、ご無沙汰しております。はい、丹塗矢の。丑雄です。本日は一つご相談が、ええ、上海の従弟のことで少し。そちらの末妹殿にご相談が。いえいえ。世話になっているだなんてとんでもない。あれときたら、そちらにもご迷惑ばかりおかけして――」
 長い、長い、そして長い謝罪と伝言を言付けて、通話を切る。あまり身内外に借りを作りたくはなかったのだが、今日ばかりは仕方がない。さて、と呟いて丑雄は立ち上がった。




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