ままならない話
ままならないことなど、ないと思っていた。
いや、それは正確ではないか。ほとんどない、というのが正しい。実際、挫折の経験というのは数えるほどもない。まだ従兄と二人、祖父の許で学んでいた頃に自分の若さを悔しく思ったことが何度か――これは仕方がない。素質の問題ではなく、年齢の問題である。それから恋人と出会った後に、十二回も告白を保留にされたとき。これは、実を言えばかなり落ち込んだ。それからの人生をどうしたものかとわりと本気で悩んだもので、結果的に収まるところに収まったからよかったもののそうでなかったら今頃自分はどうしていたのか本気で見当が付かない。
まあ、それはともかくとして。
三輪辰史は困り果てていた。惨状を前に、為す術もなく途方に暮れていた。
恋人である天月比奈の部屋。比奈が綺麗にしているキッチンは、見るも無惨に荒れ果てている。このときばかりは辰史も、彼女が不在でよかったと心の底から思ったのだった。
二月十四日。バレンタインデー。
「知っていますか、三輪さん。今年は男性から女性に贈るパターンも多いみたいですよ。なんか、海外では男性から女性へプレゼントを贈るんだそうで。それに倣ったとか」
その手の――聞いたところで一円の得にもならないような――話題を振ってくるのは辰史の身近では二人。一人は兄、三輪秋寅。そしてもう一人が、今回の事の発端となった名島瑠璃也である。甥っ子の親友である彼は、人間の女にもてない。そりゃもう驚くほどもてない。なにが悪いというわけでもなく、なんとなくもてない。その上、女運もないときているので、それに関しては哀れであると辰史も少し同情している。
「本命チョコを一つももらえねえからって、ついに自分から特攻する側に回ったのか。お前も本気で可哀想なやつだな。今年は奮発するよう、太郎に言ってやろうか?」
「太郎ちゃんが奮発してくれたからって、俺が本命チョコをもらえないことに変わりはないじゃないですか……って、そうではなく! つまり俺が言いたいのはですね、草食男子ってのはもう古いってことなんですよ。ちょっと奇抜なことをして驚かせてこそっていうか。意外性というか。三輪さんだって、たまにはそういうこともしてみないと比奈さんに飽きられちゃうんじゃないかとか、そういう話で。周りは三輪さんたちのことバカップルバカップル言っていますけど、そのバカップルっぷりも大分マンネリ化してきたんじゃないかと俺としては思わなくもないわけで――」
「お前な、アホか。そのバカップルってのもよく分からんが、俺と比奈はマンネリ化してるわけじゃなく落ち着いた関係にシフトしてきてんだよ。近い将来を見据えてな」
「でも結婚する前に夫婦のような関係で落ち着いてしまうのはよくないと言いませんか」
「聞いたことねえよ」
「たとえば三輪さんが料理なんかして出迎えたとしたら、比奈さんも相当に驚くでしょうし、辰史さん素敵! 抱いて! ってなると思うんですけどねー。俺は」
「つくづく可哀想なやつだな、お前は」
どうしようもなく、また救いようもなく哀れな大学生の戯れ言に付き合ってやった。そのときは、それくらいの気持ちだったのだが――後から、どうにも気になってしまった。果たして恋人は本当にマンネリズムに陥っていないのか。
傍目には出会った頃から変わらないように見える。控えめではあるがよく笑っている。とはいえ比奈はどちらかといえば愛想笑いが得意な方ではあるし、不満も呑み込みがちである。考えた末に不安が勝って、瑠璃也の戯れ言に踊らされた。
その結果が、これだ。
「別の意味で驚くだろうな、これは」
呆然と呟きながら、やはり慣れないことはするもんじゃないなと肩を落とす。思えば、昔から料理は得意ではなかった。火力と質量を重視するのがよくないのかもしれないと薄々自覚をしつつも、そこは性分というか。派手な方がいい。量も多い方がいい。と、手を加えているうちに料理とも呼べないような代物が出来上がる。優しかった祖父も料理に関しては褒めてくれなかったし、過去の丑雄に至っては「幼稚園児でももう少しまともなものを作る」と一刀両断してくれた。(余談ではあるが、生真面目な従兄はたとえ幼稚園児以下の料理でも残飯にするのは忍びないと無理に平らげ翌日体調を崩したので、以来辰史が料理当番を任されることはなくなった)
「でもなあ、出来合いってのも味気ねえし。かといって太郎にやらせるわけにもいかねえし。流石に“太郎くん素敵! 抱いて!”とはならんだろうが、こう俺にもプライドってものが」
どうしたもんか。
考えながら、オーブンに張り付いたよく分からない粘液のようなものを摘んででろりと引きはがす。すべて蒸発したか飛び散ったかして、耐熱皿の中にはなにも残っていなかった。皿は焦げ付いてすらいて、使い物になるかも怪しい。幸いオーブンそのものは壊れていないようだが。その上、床は零れた薄力粉で真っ白。鍋はチョコレートがこびりついて固まっている。流しには、計量に使った容器やスプーンが積まれたままだ。半分燃えてしまったレシピ本をゴミ箱へ投げ捨てると、辰史は携帯を取り出した。これはもう自分で掃除をするより業者を入れた方が早い。
「あ、もしもし。キッチンの清掃を頼みたいんですが。いやメンテとかそういうことではなく。料理中に不慮の事故が起こったので。ええ、今すぐに。場所は――」
マンションの住所を告げ、通話を切る。口からは、自然と溜息が零れた。
***
「あれ、辰史さん。キッチンを片付けてくれたんですか?」
帰宅ののち。天月比奈は、キッチンに入っておやと思った。妙に綺麗になっている。代わりに皿の数枚と鍋が一つ足りないようではあるが。訊ねると、恋人――三輪辰史はどうしてかぎくりと体を強ばらせた。
「あ、ああ。まあな。バレンタインだからな。日頃の感謝と愛を込めてってやつだ」
「今日それを伝えるのは、わたしの方ですよ」
「いや、瑠璃也の話じゃ逆チョコってのが流行ってるらしい。待つのは古いんだと」
「わたしとしてはイベントのときくらいこちらから、と思わないこともないんですけどね」
なにせ日頃は彼からしてもらうばかりだ。勢いに甘えて受け身になりがちであるという自覚もある。
「わたしだって辰史さんに感謝していますし、その、好きですから。って、ほら。また辰史さんに便乗したみたいになってしまったじゃないですか。ちゃんと、好きなのに」
幸せなような、情けないような。複雑な心地で、けれど苦笑いも気が利かないなと代わりに笑顔を一つ。浮かべて、比奈はクローゼットへ足を向けた。コートを脱いでそこへ押し込み、隠しておいた小さな箱を取り出す。ソファに戻って辰史の隣に腰を下ろすと、彼はやはりどうしてか申し訳なさそうに体を縮こまらせた。首を傾げながら、その手に箱を渡す。長い指がやや躊躇いがちにリボンをほどいて、中身を取り出した。
チョコレートではなく、シルバーのチェーンとペンダントトップである。
「その、隠す必要もなくなって指輪は然るべきところに収まりましたし、首許が寂しいなと思っていたので。改めてこれからもよろしくお願いしますということで――」
言葉を繰るのは苦手だ。情熱的な愛の言葉も、胸を震わせるような囁きも、なにもかも辰史からもらうばかりで。想いはいつだって胸の内に渦巻いているのだけれど、いざ口に出そうとするとまるで言葉を覚えたばかりに子供のように拙くなってしまう。
「辰史さん、目を……」
見てください。と、比奈は辰史に懇願した――昔は、目を見られることが怖くてたまらなかった。胸の内にある感情を嘘偽りなく相手に晒してしまう、狐憑きの目だ。辰史はゆるゆると視線を上げて、比奈を見つめた。視線が絡み合う。と、
「あー……そっか。馬鹿か、俺は」
彼が呻いた。
「こんなに分かりやすいのに」
「もしかして、また不安にさせてしまいましたか?」
「いや、不安にさせられたっていうか。瑠璃也のやつに乗せられたっていうか。俺も、お前のことに関しちゃ無闇に自分を過信する気になれないっていうか。もしもが、怖い」
つまりは図星ということなのだろう。決まりが悪そうな顔でぼそぼそ言い訳をする彼に、比奈は少しだけ笑ってしまった。
「もう少し、信用してくれてもいいと思うんですけど」
それを言うのは何回目だろうかと思いつつ。
「辰史さんが思っているよりずっと、わたしは辰史さんのことが好きなんですから」
それでも改めて告げると、辰史はぱっと顔を赤くした。
「分かってる。お前の目を見るたび、思い知らされる」
情熱的な赤い目だ、と。もぞもぞ呟きながら、視線をふいと横へ逸らす。
「腹、減ってないか?」
「あ、今から作りますよ」
「じゃなくて」
短く否定して、辰史は曖昧に彷徨わせていた瞳をようやく一点へ向けた。それから、
「作った」
と、一言。彼の視線を追うと、テーブルの隅にラップのかけられた皿があった。サンドウィッチが載せられている。中身は卵とハム、そしてチーズだろうか。具ははみ出ているし切り口もぼろぼろだが。比奈は驚いて、辰史の顔をまじまじと見つめた。
「辰史さんが作ってくれたんですか?」
「ああ、まあ。本当は、もっと凝ったものにしようと思ったんだが」
「十分ですよ。だって、頑張ってくれたんでしょう?」
キッチンが妙に片付いていた理由をなんとなく察してしまって、比奈は微笑んだ。きっと辰史は思っただけでなく、実際に作ってくれようとしたのだ。日頃、家事は甥に任せるばかりで片付けの一つもしないらしい彼が。料理をしようと張り切って、失敗して、落ち込んで、それでもどうにかサンドウィッチを作ってくれた。十分すぎるほどだ。
「すぐにスープを作りますから、一緒に食べましょう」
微妙に顔を逸らしている辰史の目元に軽く口付けをして――そうして今度は照れているらしい彼のことはそのままにして――比奈は立ち上がった。
END.