冷えた指先






「ただいま。くっそ、ぎりぎり間に合わなかったか……」

 と、駆け込んできたのは報復屋を休業している彼。傲岸不遜が服を着て歩いたような男。つまりは三輪辰史だ。退勤スタンプを押したタイムカードを片手に、十間あきらは営業所の入り口を振り返った。
 夜から雨が降り始めると、確か予報が出ていたはずだが――傘を持っていかなかったらしい。車庫からここまで走ってきたのだろうが、見事に濡れ鼠だ。普段は後ろへ撫でつけている前髪もべったりと額に張り付いて、流石に「水も滴るいい男」と言うだけの元気もないのか、その顔は苦りきっている。

「おかえりなさい、辰史さん」

 奥からひょいと顔を覗かせたのは、天月比奈だった。恋人が傘を持っていかなかったことを予想していたのか、タオルを何枚か抱えて走ってくる。

「あ、比奈さん。滑りやすいので気をつけてください」
「うん。ありがとう、十間くんも帰りは気をつけてね」

 すれ違い様に、気遣い一つと微笑むことも忘れない。ああ罪作りな人だなと思いながら、あきらは辰史に駆け寄っていく彼女の背中を眺める。

「はい、ちょっと屈んでください。ちゃんと拭かないと風邪引きますよ」
「ああ」
「もう、シャツまでびっしょりじゃないですか……」
「あんなに降ってくるとは思わなかったんだ」

 まるで子供だ。比奈に髪を拭かれながらいくらか決まりが悪いのか、辰史はぼそぼそと呟いた。自分でやる、とか。ガキじゃねえんだから、とか。あきら、まだいるぞ――とか。最後の一言はこちらを気遣っての呟きなのだろうが、あきらはかえって見せつけられたような心地で密かに舌打ちをした。
 確かに、居づらい空気だ。けれど、ここでそそくさと出て行くのも負けを認めるようで癪だと、素知らぬ顔でタイムカードを戻して居座ってやることにする。

「比奈さん、帰る前にコーヒー飲んでっていいですか?」
「うん。そうね、少し待てば雨も小降りになるかもしれないし――」

 答えながらも、その目は辰史を向いたままだ。

「シャツも脱いでください。替え、用意してありますから」
「……ん」

 辰史は一瞬だけあきらに視線を寄越したが、動く気配がないと知るや溜息交じりに頷いた。風邪を引くからと急かされるままに、シャツのボタンを外していく。
 水を吸った肌着とシャツが、音を立てて床に落ちる。スポーツをやっているふうには見えないが、意外にも綺麗な筋肉が付いた体だった。或いは見栄っ張りな彼のことだから、密かに鍛えているのかもしれないが。
 比奈は特に恥ずかしがるでもなく――まあ、今更赤面するほどのことでもないのだろう――タオルを持った白い手で、恋人の裸体を拭っている。襟足から首筋を伝い、胸元へ流れる水滴を、優しく、愛おしむように。見ている方が恥ずかしくなってしまう光景だ。指先から愛情が溢れているように錯覚してしまうほどだった。やや照れつつも満更ではないらしい辰史も、目を細めてそんな恋人の手元を見つめている。
 まじまじと見るものではないなと思いながら、つい凝視してしまって、あきらは一人赤面した。面白くないのは勿論だが、それ以上に落ち着かない。

「腕くらいは自分で拭くぞ」
「とか言って、辰史さん適当にぱーっと拭いて終わりにしちゃうじゃないですか」

 もっと屈んでください。と、甘い囁き声が聞こえてくる。肩から二の腕を、肘の先から手首までを、掌を、指先をそっと包み込むようにして拭いた比奈は、それから背中も丁寧に拭って、ぴとりと彼の胸のあたりに触れた。

「冷えちゃいましたね。太郎君に電話して、お湯を沸かしておいてもらいましょうか」
「いや、今日はお前のところに帰る」
「うちですか? お風呂、遅くなっちゃいますよ」
「シャワーでいい。なんつうか、あれだ。お前が変なふうに触るから――」

 それ以上は黙って聞けたものではない。
 やっぱり早く帰ればよかったなと思いながら、あきらは音を立ててカップの中身をすすった。比奈の頬に伸びかけていた辰史の手が、ぴたりと止まる。その一瞬、彼らは確かに二人の世界に入ってしまっていたのだろう。まるであきらがいたことに初めて気付いたと言わんばかりの顔で、ぱっと体を離したのだった。

「えっと、シャツ。そう、シャツ。新しいシャツ、これ、どうぞ」
「悪いな」
「えっと下は――更衣室で、あの、ロッカーに置いてありますから」
「ああ。替えてくる」

 慌てつつも息はぴったり合っている。彼らのやり取りに再度落ち込みながら、あきらはカップに残ったコーヒーを飲み干した。半ば嫌がらせのために居座って、砂糖もミルクも入れ忘れたそれは酷く苦い。顔をしかめながら、床に落ちたシャツとタオルを片付けている比奈を眺めていると、不意に顔を上げた彼女と目が合った。

「あ、えっと、比奈さん……」
「どうしたの? 十間くん。あっ、ココア出せばよかったね。気付かなくて、ごめん」
「いや、そうじゃなくて」

 そうではない。そうではないなら、一体なんだというのか。カップを両手で包んだまま、あきらは自分でもどうしたいのか分からないまま比奈を見つめた。
 例えば、夕飯を――俺も食べに行っていいですか、と。そんなことを言ってみたら、彼女はなんと答えてくれるのだろうか。いつものように微笑んで、いいよと頷いてくれるのか。それとも少しくらいは嫌そうな顔をしてみせるのか。
 カップを置いて、立ち上がる。二人の惚気に当てられてしまったのかもしれない。やはり胸のあたりがざわついて、妙に落ち着かないのだ。
(だって、比奈さんがあんなふうに……)
 きょとんと不思議そうな顔をしている彼女の、指先を見つめる。
 例えば、この後も――人の目がないところで、またあんなふうにあの男に触れるのか、とか。もしもその指先で触れられたら、どんな心地がするのだろう、とか。考えたら堪らなくなってしまって、あきらは一歩、比奈に近付いた。一歩。もう一歩だけ。そう思ううちに、距離はみるみる近くなる。およそ一人分の空白を残した距離で立ち止まって、ふっと我に返ったときには彼女に手が伸びている。シャツとタオルを掴んだ、その冷えた指先に触れると、比奈は遅れて驚いたような顔をした。
(おっさんが過保護になるはずだ)
 鳶色の目を熱っぽく見つめながら、あきらはぼんやりと独りごちる。彼女も大概、鈍すぎる。危機感がない。その手から、濡れた男物のシャツをつっと取り上げて――

「その……」

 恋人の裸体を慈しんでいた、指の腹をなぞる。と、

「待たせたな、比奈」

 ドアが。
 なんの前触れもなく、ドアが開いた。あきらはびくりと肩を震わせて、比奈の手からタオルも奪い取った。何やってんだ俺は、と思いつつ。一方で男の絶妙なタイミングに腹も立てつつ、にかっといつも通りの笑顔を作ってみせる。

「えっと、片付けて戸締まりしておきますよ。洗濯機と乾燥機、かけ終わるまでここにいるのはどってことないですし。俺のが部屋、近いですし。こういうのは下っ端が率先してやれって、常盤さんも……」
「お、悪いな。お前も気が利くようになったじゃねえか」

 何も知らないくせに、気楽に軽口を叩いてくる。そんな辰史を振り返って――比奈の方は見ないようにして、あきらは小さく毒づいた。

「あんたに気ィ利かせたんじゃねえっての」






END