王女サロメの憤慨









「あ、お姉ちゃん」

 撮影の帰り道。古びたマンションから出てくる姉の姿を見つけると、真田優香は大きく声を上げた。長身の女がそれに気づき、控えめに手を振り返してくる。

 真田律華。それが、姉の名前だ。決して不器量ではないが、女性らしくはない。ジャーマン・シェパードやドーベルマンといった、厳しく訓練された警察犬を思わせる顔立ち――とは、しばしば姉のトレーニングに付き合わされる幼馴染みの談だった。
 まさしく、姉は警察官だ。一七〇センチメートルの長身で、やはり警察犬のように訓練を趣味にして、その名の通り常に自分を律している。自分にも他人にも厳しく、不正を許さない。いつからそうだったのか。優香の物心付いたときにはもう、姉は今の姉であったような気はする。
 どちらかといえばいい加減な両親はそんな姉に対して気詰まりしていたのか、昔から放任気味だ。姉の方も長くは両親に頼らず、大学進学とともに家を出た。進学先は近くの名門女子大だが、特別推薦枠を勝ち取って両親には一銭の負担もかけなかったのだと――これも、祖父がぽろりと零した。祖父はそんな生真面目な姉のことも優香同様に可愛がって、よく店に呼びつけたものだった。
 姉は、優香に対しても厳しかった。たとえば優香が店先で我侭を言って店員を困らせたりだとか、公共の場でほんの少しだけ羽目を外してしまったりだとか。そんな場面に居合わせるたび、姉は優香をたしなめた。周りの大人が笑って済ませ、友人たちが「優香ちゃんなら仕方ない」と言ってくれるようなことでも、逐一謝らせなければ気が済まないようだった。
 そんな融通の利かない姉を疎んだことがないといえば、嘘になる。以前の優香は、それこそ悪意を持って姉の妬みを疑っていた。誰からも甘やかされ愛される自分と、まるで自分一人の力で生きているような姉とでは違いすぎる。あまりに、違う。時に哀れを感じてしまうほどに。喧嘩の最中にカッとなって、それを指摘したこともある。
 そんなとき、姉はどんな顔をしていただろうか。呆れた顔で、歳の離れた妹の癇癪と受け流していたような覚えがあるが。馬鹿なことを言ってしまった、と、今になって優香は思う。厳しくも恐ろしい姉が、実は大人たちの中ではもっとも優しかったのだと気付いたのはつい最近のことだ。幼馴染と、とある事件に巻き込まれた――いや、自分から首を突っ込んだのか。ともかく、自分を愛してはくれない意地悪な男との邂逅が、優香をほんの少しだけ変えた。
 男への借金は、今も幼馴染と二人で払っている。早く金を返してしまおうとバイトを増やしたために、幼馴染と二人揃って今期の成績は散々だった。日頃は甘やかしてくれる教師の、お姉さんは優秀だったのに、という掌を返したような呟きが今でも耳に残っている。
 流石に嘆いた両親と、慰める叔母の言葉も。
「あはは、でもいいじゃない。優香ちゃんは可愛いんだから。頭がよくなくったって、もらい手はあるでしょ。大丈夫。なんだったら、お見合いでいい人を探せば? 若くて可愛いうちなら、専業主婦をさせてくれる旦那さんが掴まるかもしれないじゃない」
 まるで自分の人生を決めつけたような叔母の言葉に、優香はぞっとした。それを聞いて、母親は当たり前のように、確かにねえと頷いた。
「母さんも叔母さんも、結婚を勧める動機が不純すぎる。優香も二人の言うことを真に受けて、たった一度の成績で自棄になるなよ。今は選択肢を増やすために、諦めず勉強する時期だ」
 怒ってくれたのは、姉だった。母も叔母も「冗談よ」と笑っていたが、優香は笑えずに、姉の言葉に少しだけ救われたのだった。

「優香。今、帰りか? 雅彦はどうした?」
 駆け寄っていくと、姉はその厳しい顔をいくらか和らげた。
「今日はバイト。っていうか、いつも一緒にいるわけじゃないよ。わたしたち」
 幼馴染を異性としてまったく意識しないわけではないが、まるで付き合っているように言われるのはまだ多少の抵抗がある。唇を尖らせて訂正する優香に、姉はなにを今更とでも言いたげに肩を竦めた。
「そう言って、幼稚園の頃からべったりじゃないか」
 それから、気付いたように付け足してくる。
「ああ、そうだ。二人とも自分の小遣いを自分で稼ぐのは悪いことではないが、勉学の方も疎かにするなよ。なにか困ったことがあれば相談に乗るから、抱え込まないように」
 見透かすような言葉に、優香はどきりとした。
 報復屋とのやり取りを、姉は知らないはずだ。
「え〜、なにそれ? 大袈裟な感じ」
 笑顔を作ることは得意だ。いつだって、まずいことは笑って誤魔化してきたし、ついさっきもカメラの前で微笑んできたばかりだ。おかしいふりをして口元に手を当て、確認する。大丈夫だ。唇は綺麗に弧を描いている。訊き返す優香に、しかし姉はにこりともしなかった。
「大袈裟ということはないさ。そろそろ進路相談も始まって、大人の声が気になり始める時期だ。いつまでも幼いままではいられない。悩むことだって、あるだろう」
 どこまでも生真面目だ。生真面目すぎる姉だ。
 ありがたいような、それでいて煩わしいような――ああ、それこそ嫉妬か。自分の足だけで地に根を張って立っているような姉のことを羨んで、優香は姉を見上げる目を細めた。
「うん、ありがとう。お姉ちゃん」
 一度だけ、瞬きする。胸の内で弱気が顔を覗かせて、借金のことを打ち明けてしまえと囁いた。姉ならきっと力になってくれるだろう。優香と幼馴染の過ちを叱り、あの冷酷な報復屋の許へ一緒に謝りに行ってくれるかもしれない。けれど、
(それじゃあ、駄目なんだろうな)
 なんとはなしにそう思って、優香は小さくかぶりを振った。
 責任感と誠意。それこそ、自分と幼馴染に足りなかったものだ。大人に甘えて、すべてが思い通りになると信じていた。そのつけだけは、自分で支払わなければいけない。借りをすべて返し終わったところで初めて、サロメではない、普通の真田優香に戻れるのだとも感じていた。
「待たせて悪かったな、真田。鷺沼のやつが、なかなか電話に出なくて――」
 ガタガタと音を立てて開いた自動ドアから、タイミングよく人が出てくる。姉の同僚だろうか。きっちりスーツを着込んだ姉とは正反対に、着崩している。たれ目がちで、どことなくシニカルな顔の男だった。
「九雀先輩!」
 と姉に呼ばれた男は、優香に気付くと、きょとんと目を瞬かせた。
「お、妹か?」
 初対面でそう言い当ててみせる人は多くないため、姉は驚いたようだった。
「はい、妹の優香です。しかし、どうして分かったんですか?」
「いや、見りゃ分かるだろ」
「は、はあ……」
 姉がそんなふうに困惑しきった声を出すというのも珍しい。成程、と優香は男の顔を眺めながら納得した。警察学校を出たばかりの頃は獰猛な犬のように唸っていたばかりの姉が、最近いい上司に拾われて落ち着いた――と祖父が話していたが、頭が上がらなそうな姉の様子を見るに彼のことだろう。
(ふうん。イメージと違う)
 姉と同じ生真面目な熱血漢か、逆に爽やかな優男を想像していた。目の前の男はどちらでもなく、高校生の優香から見ても胡散臭そうに見える。
「優香、こちらは九雀蔵之介さんだ。大恩ある人だから、失礼のないように」
 姉は男のことをすっかり信頼しきっているのか、そんなふうに言ってみせた。
(なあんか、心配。いかにも遊び慣れてそうって感じ。逆にお姉ちゃんは遊び慣れてなさそうだし、騙されて骨抜きにされちゃったら可哀想)
 試すつもりで、優香は上目遣いに彼を見つめた。目が合う。相手の目に自分への興味が浮かんでいるのを確認してから、一度瞬きをして、はにかむように微笑む。
「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします。刑事さん♪」
 一歩、二歩と距離を詰めながら、とどめとばかりにするりと腕を組もうとして――
「いやいや。お願いされるようなことなんてないほど、お姉さんはしっかりやってるよ」
 体重を預けようとした先に男の体はなかった。空振りして転びそうになる優香を、律華の腕が支えた。お前はなにをやっているんだ、と呆れた声が聞こえてくるが。
(……また、失敗した!)
 これで二度目だ。
 過去の失敗まで思い出して、姉の腕にすがりついたまま八つ当たり気味に男を睨む。と、彼は苦笑混じりに優香の頭をぽんっと撫でた。
「世の中間抜けな大人ばっかりじゃねえから、悪戯はほどほどにな。お嬢ちゃん」
 まるで子供扱いだ。
 報復屋を彷彿とさせる、その大人ぶった警句に優香は今度こそ顔を赤くした。頭に乗せ垂れたままの男の手を振り払い、姉の体を突き飛ばし、踵を返す。
「帰る。帰ります! お姉ちゃん、じゃあね!」
「あ? ああ、よく分からないが外灯のある道を選んで気を付けて帰るんだぞ」
 姉は、まったく、本当に、これっぽっちも気付いていないらしい。妹の計算高さにも、男の油断ならなさにも。今のやり取りにどんな意味があったのかも分かっていない顔で一人不思議そうに、首を傾げている。
(もう! お姉ちゃんのために化けの皮を剥いでやろうと思ったのに! 報われない!)
 我が姉ながら鈍すぎる、と思いながら優香は憤然と歩き出した。やっぱり、大人の男は駄目だ。言うことを聞いてくれる幼馴染くらいが丁度いい。少なくとも幼馴染は、ああやって自分をあしらったりはしない。どんなしょうもない話にも付き合ってくれるし、甘えれば素直にほだされてくれる。考えているうちに、無性に幼馴染と話したくなった。
(夜、電話かけてみようかな)
 そうしよう。一人頷いて、ようやく足を止める。ちらりと背後を振り返ると、パトカーのテールランプが尾を引いて、優香とは反対の方向へ走っていくのが見えた。




END.