雪に落涙
「つまり、わたしにその覚悟はないだろうと? そうおっしゃるんですか?」
他に会話の手掛かりもなく、訊ねる。と、丑雄は眉をひそめてかぶりを振った。
「俺は、年寄り連中が望むようなことをあなたに強いる気はない――そういうことです」
「話が見えません」
どこまでも遠回しな彼の物言いに、伊緒里はぴしゃりと言い返した。丑雄は少し迷うそぶりを見せたが、やや間を置いて溜息とともに続けてきた。
「……縁談の発端をご存知ですか?」
「丹塗矢家のご当主が隠居されたと」
「父が隠居を決めたのは、母の死が原因でした。母は元々体の弱い人でしたが、俺と三輪家の当主……三輪尊翁の関係が悪化してからは気に病むあまりほとんど寝たきりの状態が続いていたんです。それでも俺は尊翁と和解できませんでした。その結果、母は亡くなり、失意の父は隠居を決め、俺はこうして丹塗矢家の当主として伴侶を求めるに至った――すべては己の未熟さが招いたことです。年寄りは、こういった事情をあなたに話さない。うちの連中は丹塗矢家の体裁を取り繕うことしか考えていないし、そちらは羽黒の家と三輪を結びつけることしか考えていない。たとえば将来、丹塗矢と三輪家の関係が悪化したときにあなたが丹塗矢ともども羽黒から見捨てられる可能性なんかもお話ししてはいないんでしょう。だから、あなたはこの縁談を受けるべきではないと俺は思います」
丑雄の告白に、伊緒里はぽかんと口を開けた。
なにを言い出すのか、この人は――と呆れる気持ちもあった。
「……そんな話を打ち明けられてしまったら、どんな女性でも及び腰になってしまうと思いますけど」
「でしょうね」
と、彼は真面目くさった顔で頷いている。
「もしかして、一族のことがお嫌いなんですか?」
「嫌いと言うほどではないが、女性を騙してその人生を捧げさせるほど大切なものでもないと考えています」
この時点で、伊緒里の妹なら「一抜けた!」と言って逃げ出してしまっていたに違いない。彼は酷く面倒な――好意的な言い方をすれば、生真面目な男だ。生真面目で、融通が利かない。反面で誠実なのだろう、とも伊緒里は思った。
「では、もしもその条件でも構わないという女性がいたら?」
好奇心半分に訊ねてみる。彼は即答してきた。
「俺には勿体ないほど素晴らしい人なので、もっといい相手を探してくださいと答えます」
「あなた、結婚する気がないんですか?」
「ないというか……これから好きになるかもしれない相手をみすみす不幸にしたいとは思わないでしょう、普通は」
「普通は、自分が幸せにしてみせると意気込むものじゃないんですか?」
言いつつ、伊緒里は自分の口からそんな言葉が出たことに驚いていた。まるで妹が言いそうなことだ、と思いながら彼を見る。丑雄は意外そうに目を瞬かせている。少しだけ気恥ずかしくなって、一般的にはそういうものなのでしょう? と付け加えると、彼は苦笑してみせた。
「そうか。それは、思いつかなかった……」
「どうしてです?」
独り言のつもりだったのか、伊緒里がその言葉を拾うと彼は狼狽したようだった。
「ええと――」
少しの間を空けて、続けてくる。
「自分で決められることがあまりに少ないと、自分がなにをできるかも分からなくなってくる。そういうことなんだと思います」
呟きにも似た言葉の最後に添えられた溜息が、胸を打つ。
「あなたは賢い女性だ、羽黒伊緒里さん。自分の意見を臆することなく伝える術ももっている。きっと、あなたのような人ならうちの一族でもやっていけるのだと思う。でも――」
「“もっといい相手を探してください”というのはなしです」
先回りして遮ると、丑雄は少しだけ困ったような顔をした。