雪に落涙





 はらはらと雪を降らせる空は、吸い込まれてしまいそうなほどに暗かった。人の心を不安にする色だ。と、羽黒伊緒里は空を見上げて独りごちた。凍えた空気に白い息が溶けて消える。
(最高の見合い日和だこと!)
 その縁談を持ち込んだのは父、羽黒宗久だった。
 宗久には娘が二人いる。伊緒里と、妹の志緒里。羽黒宗家は代々一族の男児が後を継ぐことになっているため、傍流から男を養子に迎えることが決まっていた。幼い頃から“お前たちは将来、別の家へ嫁ぐのだ”と言い含められてきたため、伊緒里も特に不服を申し立てたりはしなかった。最近ボーイフレンドができたらしい二つ下の妹は、他人事ではないと焦ったのか「おねーちゃん、まだ結婚するような歳じゃないのに! しかも会ったこともない相手なんて!」と騒いでいたが。

「丹塗矢丑雄さん、ね」

 空に呟く。
 それが夫となる人の名前である。
 三輪家の傍流、丹塗矢家の跡継ぎ。家柄は申し分ない。人柄も、聞いた限りでは悪くなさそうだ。生真面目で融通が利かないきらいがある――という話ではあったが、伊緒里の父も祖父も昔気質の頑固さを持った人だったので、気にはならなかった。許容できた、と言うよりは然程興味が持てなかったと言った方が正しいか。
 まるで他人事のように縁談を受けて、まるで他人事のように当日を迎えてしまった。きっと、他人事のように結婚して、なんの実感もなく男の妻になり、そのまま振られた役割に則って他人事の人生を送るのだろう――と、伊緒里は考えている。これまでもそうだった。異能者一族に生まれるというのは、そういうことだ。個ではなく、家が重視される。それも、仕方のないことだ。異能者でなくとも、そういった例はままある。やはり、妹はそれをよしとしないだろうが。
 淡泊というわけではない……はずだ。ただ、よく分からないというのが正直なところだった。

 羽黒伊緒里は恋をしたことがない。ボーイフレンドを作った妹の気持ちも分からない。遅かれ早かれ彼女も親の決めた相手と一緒になるのに、どうしてわざわざ無駄な感情を育てようとするのか。以前なんの気もなしに訊いてみたところ、妹は変な顔をしてこう言った。

「おねーちゃんて、機械みたい」

 その言葉の意味も分からなかった。なんとなく侮辱されたことだけは理解できたので、意趣返しに機械と人間の違いを説明したところ喧嘩になって、それから三日間口をきかなかった。
 そんなことを、思い出した。何故か。
(わたしでも、感傷的になることがあるのだろうか)
 分からない。そもそも、なにをもって感傷と呼ぶのか。
 そんなことを考えていたときだった。庭を人影が横切ったのは。長身の男だ。見覚えのない顔だったので、彼が縁談相手であることはすぐに分かった。六つほど年上と聞いていたが、確かに彼の顔立ちは大人の男のそれだった。すっと背筋を伸ばして、玄関を見つめている。その硬いまなざしは評判通りの真面目さを感じさせた。いかにも父親が好みそうな男だ、と伊緒里は思った。
 男の手が、呼び鈴に伸びる――


「丹塗矢さん」

 声をかける必要はなかった。黙って見ていたところで、五分も後には客間で彼と対面していたはずだった。にもかかわらず呼び止めてしまって、伊緒里は密かに狼狽えた。
 男の動きが止まる。
 彼は――まったく忌々しいことに――表情一つ変えなかった。まるで伊緒里がそこにいたことを知っていたかのように、自然に首を巡らせて、羽黒さん、と応じてきたのだった。
 ――声は、嫌いではない。
 低い。耳に心地のよい声だ。そんなことを思いながら、伊緒里は男の顔を眺めた。
(神経質そうな人。それに……)

「なにか、気がかりなことでも?」

 不躾にもそう訊いてしまったのは、彼が酷く悲しげに見えたからだった。心当たりでもあったのか、丹塗矢丑雄は少しだけ狼狽えたようだった。

「いや、そういうわけでは」

 嘘は苦手なのだろう。ない、とは言い切れずに語尾が消える。
 静寂。空気は痛いほどに冷え切っている。伊緒里は無意識に腕をさすった。雪が地面に落ちる音さえ聞こえてきそうなほどに、世界は無音だった。丹塗矢丑雄は口を噤んでいる。いくら待ったところで、この状況が変わることはないだろう――と気付いて、伊緒里はそっと溜息を零した。
 濡れ縁から庭に降りる。家に上がるよう勧めてもよかったが、少しだけ男を見極めてみたい気持ちもあった。「濡れますよ」と制止する声が聞こえたが、無視して近づく。その瞬間、彼は怯えた猫のように一歩だけ後じさった。