清姫







 ***


 稲荷運送――
 その営業所は、蛟堂よりも太郎の通う大学のキャンパス寄りにある駅近くにある。
 ビジネス街の狭い通路を縫うように原付を走らせた太郎は、一件の黒いビルの前で止まった。その建物は真新しい、大きなビルとビルの間にひっそりと建っているせいか、目立たない。自動ドアの代わりに、重々しい焦げ茶色の扉が入り口を固く閉ざしている。関係者でもなければ、中を覗いてみようという気にはならないだろう。
 太郎は原付から降りると、建物の側面へ回った。ビルとビルの間――狭い空間には、銀色の螺旋階段が無理やり取り付けられている。一段ごとに、足音が大きく響く。かつん、かつんと反響する自らの足音に眉をひそめながら、太郎は螺旋階段を上りきった。目の前には、銀色のドアが一枚。
 ガラスの部分には、シールが貼り付けられている。白と黒の狐が一匹ずつ、太極を描くように配置されたロゴマークだ。その下には赤色の文字で――稲荷運送。
「すみません」と太郎が声をかける直前に、ドアはひとりでに内側へ開いた。まるで来訪を察知したようなタイミングだった。ドアを押そうとした恰好のまま、太郎は硬直する。けれどすぐに気を取り直したように中へ足を踏み入れたのは、この稲荷運送が扱う荷≠フ性質を思い出したからだった。
「比奈さん、いますか? 蛟堂の太郎ですけど」
 ビルの外観からすると、意外と思われるほどに中は明るい。
「あ、太郎くん。いらっしゃい」
 白い廊下の奥、左手にあったドアから一人の女が顔を覗かせた。
 ――若い。艶やかな黒髪が、肌の白さを際立たせている。涼やかな目元の清楚な美人だ。
「用件は辰史さんから電話で聞いてるから。こっちの部屋へどうぞ」
 女――天月比奈は、にこりと笑ってそう促した。
 辰史とは、仕事上それなりに親しくしているらしい。彼女はあの叔父のことを名前で呼ぶ、数少ない人物の一人でもある。歳は辰史より四つ下だと聞いているが、不相応に落ち着いた雰囲気があった。
 比奈が経営する、この運送会社――営業所は小さく従業員も少ないが、ある種の人々からはなくてはならない存在として重宝されている。
「他の方は?」
「回収と配達に行っているから、今はいないの」
「忙しい時に済みません」
「太郎君が謝ることはないでしょう? それに、辰史さんにはいつもお世話になっているから」
 鳶色の瞳を和らげて微笑む。唇の隙間から零れる歯が、眩しい。
「はは・・・・・・」
 あの叔父のお世話≠ルどあてにならないものはないが。
 返す笑みを引き攣らせれば、比奈は不思議そうに首を傾げた。
「今お茶を淹れるから、座って。それともコーヒーの方がいい?」
「あ、いえ、そんな! 忙しいのに悪いですよ。用事が済んだら、すぐに帰りますから」
「遠慮しないで。依頼に来た以上、太郎君は大事なお客さんなんだから。それとも・・・・・・私の淹れたお茶なんて、怖くて飲めない?」
 悪戯っぽく笑う比奈に、太郎は慌てて首を振る。
「そ、そんなことないです! あの、じゃあコーヒーでお願いします」
「コーヒーね。了解」
 答えた比奈の姿が、奥へ消えていく。甘い残り香に、ほんのりと甘酸っぱい気持ちになる。彼女のような人を、大人と言うのだろう。叔父とは大違いだ、と太郎は口の中で呟いた。それほど間を置かずに、比奈は再び姿を現した。手にはコーヒーカップが二つ。ガラステーブルの上にカップを置いた彼女は、太郎の正面――一人掛けソファへゆっくりと腰を下ろした。鼻腔に香ばしい薫りが広がる。
「済みません。気を遣わせてしまって・・・・・・」
 スーツスカートから覗く、きっちり揃えられた白い足から顔を背ける。彷徨わせた視線をコピー機の上へ止めれば、そこには「バイト募集」のチラシが刷って置かれていた。従業員は、比奈を含めて八人だと言っていただろうか。営業所を大きくする気はないらしいが、人手不足は深刻なようだった。
「謝らないで。そんなに畏まられてしまうと、私も緊張してしまうから」
 右手をコーヒーカップに添えながら、冗談めかして笑う。その薬指には、銀の指輪が光っている。将来を約束した相手がいるという話は聞いたことはないが、いない方が不自然ではある。彼女の相手だ。きっと、辰史とは比べものにならないぐらい出来た男なのだろう――と想像しながら、太郎は比奈の顔を眺める。
 比奈はカップをソーサーに置くと『道成寺』に手を伸ばした。丁寧な手付きで紙袋へ詰めて、重さを量る――
「これくらいなら、御霊で大丈夫かな?」
 御霊。
 彼女が呟くと、太郎の足元に濃い影が生まれた。影はふっと跳ね上がって、形をとる。
 それは大きな狐に見えた。目の部分は濃い赤をしている。滴るような深紅は、比奈を見上げてゆらゆらと揺れる。俄に信じがたい光景だ。比奈は屈み込むと、狐の形をした影の前に荷を差し出した。もう片方の手で、逆三角形の額を優しく撫でる。
 御霊と名付けられたそれは、比奈の使役する黒狐だった。否、使役というのは少し違うかもしれない。御霊は、比奈に「憑いて」いる。詳しい事情は知らないが――辰史の話によれば、彼女は狐憑き≠ニ呼ばれる存在であるらしい。
 初めて御霊を見た時こそ驚いたものだが、何度も足を運ぶうちに慣れてしまった。いつもと同じように唐突に現れたその存在に驚くこともなく「御霊」と比奈と同じように名を呼べば、影はちらりと太郎を振り返った。尻尾を振って、ごろごろと喉を鳴らす。その仕草は、犬のようでも猫のようでもある。
「これ、お願いね」
 主人の頼みに、影はキィッと一声甲高く鳴いた。ぱっくりと開いた口が紙袋に包まれた荷を呑み込む。そうして、黒狐は再び足元の影へ飛び込んだ。一際濃厚だった影の色が次第に薄くなり、最後は周囲に溶け込むようにして消える。まるで最初から何も存在しなかったかのように、その場には毛の一筋も残らない。
 黒狐を送り出した比奈が、太郎に向き直った。
「あの子のことだから心配はいらないと思うけど、帰ってくるまで待ってる?」
「いえ――」
 少し考えて、首を振る。
 比奈の言う通り、御霊に任せておけば心配はないだろう。稲荷運送に長居すると、辰史が煩い。無論のこと、太郎を心配しているわけはなく、むしろ比奈に気兼ねをしているようだった。彼女の人の好さにつけ込んで、急な頼み事ばかりしている自覚があるのかもしれない。
「帰ります。夕飯の買い物もしないといけませんし」
 正直に言ってしまってから、太郎は少しだけ顔を顰めた。およそ男子大学生の言う台詞ではない。比奈も――どう答えて良いのか分からなかったのだろう。微笑みを同情に引き攣らせて、
「そっか。・・・・・・太郎君も大変ね」
 素直な感想を零した。それから、比奈は何事かを思い出したように再び部屋の奥へと姿を消した。「ちょっと待ってて」と、奥から声だけが聞こえる。
「比奈さん?」
「これ、良かったら辰史さんと二人で食べて」
 すぐに戻って来た比奈の手には、白い紙袋が提げられていた。稲荷運送のロゴが入った紙袋の中を覗けば、中には銀色の弁当箱が入っている。比奈の夕食ではないのだろうか? 視線を上げて問えば、
「ああ、大丈夫。十間君の夕飯にと思ったんだけど・・・・・・。十間君ってばまた稲荷寿司ですか、比奈さん≠チて嫌そうな顔をするから――あ、中身は五目稲荷なの。お供え物にね、ちょっと作りすぎちゃって」
 比奈はバイトから正社員になったばかりの青年の名を出して、苦笑してみせた。
「ありがとうございます、比奈さん」
 ――恐らくは、彼も本心からそんなことを言ったわけでもないのだろうが。
 それはそれ、で別の話だ。
 青年の素直さというよりは主夫の強かさでそう思って、紙袋を受け取る。

(さて、これで後はおかずの買い出しだけか。五目稲荷には何が合うかな)
 陽は既に傾き始めている。空を見上げれば、黒い影が見えた。屍喰だ。太郎が出てくるのを待っていたのだろう。独眼の鴉は空から舞い降りると、太郎の肩へ止まった。蛟堂を出た時より、気分も幾分か落ち着いている。今度はその存在に腹を立てることもなく、太郎は肩に止まった屍喰へ視線を向け、訊ねた。
「お前は何が合うと思う?屍」
 式は、独眼を細めると魚屋を見つめて一声鳴いた。太郎は軽く頷く。
「そうだね。煮付けが無難でいいか」