清姫




 序.


 狭い道路の脇に、店が所狭しと押し込められたように立ち並ぶ。
 小さな不動産屋だとか、客が入っているのか判らないブティックだとか、路上に水を垂れ流す魚屋だとか――古い店の間に、真新しいコンビニやファーストフード店、ケータイショップなどが入って、酷くちぐはぐに見える。そんな、どこにでもある商店街。細い通りを一本入って角を三つ四つ曲がった裏通りに、その店はあった。
 日本造りの平屋だ。外には時代劇に出てくる茶屋のような、赤い布の掛けられた長椅子が置かれている。真白い壁に、墨色の瓦。瓦の上に取り付けられた、横長の――杉だろうか、檜だろうか。材質までは分からない――看板には〈蛟堂〉と屋号が書き付けられていた。
 戸は営業中であることを示すように、大きく開いている。独特な香の匂いが漂う店内に、客の姿はない。玄関から上がってすぐの口の間で、黒いスーツ姿の男が一人。胡座を掻いて座っていた。
 歳は三十前後だろうか。黒髪を適当に後ろへと撫でつけて、煙草の煙をくゆらせている。薄い唇を開いて紫煙をフウと吐き出すと、三輪辰史は蛇を思わせる瞳をすうっと細めた。
 たつふみ≠ナはない。男の名はときふみ≠ニいう。名前を読み違えられることが、彼にとって一番不快であったから、気をつけなければならない。
 辰史は骨張った長い指で煙草を挟むと、灰皿へ無造作に押しつけた。
「それで――」
 一度だけ気怠げな溜息を吐き出し、携帯電話に向かって口を開く。
「この写真の男――末永崇之で間違いはありませんね」
「ええ」
 耳元で答えたのは、暗く弱々しい声だった。女だ。疲れ果てた声はいくらか老いて聞こえるが、申告された年齢に偽りがなければ、まだ若いはずだった。女の声に耳を澄ませながら、辰史は畳の上へ放った写真を指でとん、と叩いた。
「しかし、本当に良いんですか。うちを頼るってことは、つまり業を背負うってことだ。素直に司法に任せておくべきじゃないかと思うんですがね」
 横柄に訊ねる。けれど、女は気を悪くした風でもなく「いえ」ときっぱり否定した。それ以上を語る気はないのか、言葉を切って黙り込む――辰史は、内心で溜息を零しながらも殊更明るい声で答えた。
「一週間以内で片を付けますので、朗報をお待ち下さい」


 ***



「で、その依頼を引き受けたんですか。辰史叔父さん」
「仕方ねえだろ。可哀想に、式の当日に逃げられたんだと。散々貢がされた挙げ句に、な」
 脇息に肘を掛けて煙草を燻らせる叔父の姿に、岡山太郎は穏和な顔を少しだけ引き攣らせた。肩から羽織った黒のスーツは、どこか高級ブランドのものなのだろう。酷く着崩しているのに、皺一つない。
 叔父――三輪辰史は、太郎の母親の弟である。
 三輪一族は、古くから陰陽師や神頼み、巫女といった特異な職業を生業にしてきた。現代に生きる辰史を含めた三輪家の兄弟も例外ではなく、市子や薬師、報復屋とそれぞれが才能を活かせる分野で活躍をしている。太郎の母親は三輪四兄弟の長女だが――唯一、三輪家の性質≠受け継ぐことなく外へ嫁いで岡山姓となった。夫婦で輸入雑貨の店を営んでおり、今は海外へ飛んでいる。大学のキャンパスへ通うにも、叔父の家からの方が近い。太郎が辰史の許で居候するのには、そうした家庭の事情があった。
 とはいえ、大学生にもなれば親元を離れて生活していくことは不可能ではない。むしろ、幼い頃から家庭のことを一手に担ってきた太郎は、同級生らに比べると料理も大分上手かった。家事の手際も良い。今も、取り込んだばかりの洗濯物をきっちりと畳んでいる――億劫そうに眉を顰めて、煙草を吸っている叔父の向かいで。
 母の言葉を信じるなら――三輪家の兄弟の中でも、一番の問題児と言われてきたのが辰史だった。辰史は四人兄弟の末子でありながら、三輪家の特異な性質を一番強く継いでいる。陰陽道、呪術、薬学、口寄。兄弟たちがそれぞれ能力を発揮しているどの分野にも精通している上に、彼らに勝るとも劣らない才能を持っている。
 そう、才能だ。
 三輪辰史という人間の嫌味なところは、努力ではなく純粋な才能のみで生きてきたことだった。三輪家始まって以来の天才、と周囲から持て囃されてきたらしい。本人もそんな自分の才能を誇っているのか、性格はお世辞にも良いとは言い難い。傲慢で、しかも金好きときている。金に汚いと言うのが正しいのかもしれない。以前一度だけ覗き見た彼の通帳には、目の錯覚を疑いたくなるほどの額が記されていた。明らかに真っ当な方法で稼いだとは思えない数字に思わず手が震えたことを、太郎は覚えている。
 そんな辰史には、しかし生活能力がまるでなかった。
(つまり・・・・・・母さんは僕じゃなくて、叔父さんの生活が心配だったってわけだ)
 太郎は畳んだタオルを重ねて、重たい溜息を吐き出した。
 母は自堕落な末の弟を可愛がりつつも、心配していたのだろう。お目付役兼家事手伝いとして送り込まれた太郎にしてみれば、迷惑な話だった。
「可哀想に、なんて心にもないことを良く言えますよね」
 ワイシャツへ手を伸ばしながら、卓袱台の上へ放られた資料に視線を走らせる。
 ――末永崇之
 それが写真の男の名だった。甘く微笑んではいるが、どこか嫌悪を感じさせる厭らしい顔立ちをした男だ。結婚詐欺師として、随分と稼いでいるらしい。叔父は男の持つ金に惹かれて、女からの依頼を引き受けたに違いなかった。
 表向きは、漢方薬局兼雑貨屋。上海に住む身内から仕入れた薬や、効能の不明な札や香など、いかがわしげなものばかりを取り扱っている蛟堂。三輪家の先祖がこの地に店を構えたのは江戸の中頃で、辰史は十二代目店主にあたる。かつては商売として成り立っていたようだが、今はお世辞にも繁盛していると言い難い。
 ならば何故、蛟堂が辰史の代まで続いているのか?
 実を言えば、蛟堂にはもう一つの顔があった。そちらが昔から、主な収入源となっている。
 報復屋――
 客の少ない表の商売とは裏腹に、昔から今に至るまで一定の需要を保っているらしい。表立っての宣伝などできるはずもなかったが、店の存在は人々の間で実在するものとして噂されてきた。
 やり場のない恨み、憎しみ、怒り、悲しみ。負の感情を抱える人の多くは、まるで吸い寄せられたかのように蛟堂への連絡手段を手にし、想いを晴らしてきたのだ。蛟堂の店主に、莫大な報酬を支払って。
「怖いねえ。女の恨みってやつは」
 皮肉など、気にも留めていないのだろう。ちらっと視線を向ければ、叔父は鋭い眸を細めて、嗤っていた。歪んだ唇から、煙草の煙が切れ切れに零れる。
「この証拠と資料。完璧だ。訴えれば一発だってのに、司法の裁きじゃ足りないんだと」
「そうですか」
 太郎は素っ気なく答える。辰史は意外そうに片眉を跳ね上げた。
「何だ? やけに冷たい反応だな」
「叔父さんの仕事に、興味ありませんから」
 興味がない。というより、関わりたくないというのが本音だった。

 何の能力も持たずに生まれた母の許、三輪家と関わりなく生きてきた太郎にとって、目の前の叔父の日常≠ヘ異質すぎるように思われた。そもそも報復という行為からして、良くない。
 憎悪という感情に対して、背筋が寒くなるような恐怖を覚えることも勿論だが――それ以上に、太郎は嫌悪を抱かずにはいられないのだ。欲望の為に他人を傷付ける人間にも、そうして復讐というあまりに救いのない結末を選択する人間にも、無論そこへ積極的に介在していこうとする辰史にも。
(そう思うことも、傲慢なんだろうけど)
 首を振って思考に蓋をする。無意識に溜息が零れてしまったのは、仕方のないことだった。
 辰史はそんなこちらの様子にも我関せずという風に、煙草を灰皿へと押しつけている。ヘビースモーカーの彼にかかれば、紅縞瑪瑙の灰皿もあっという間に吸い殻の山だ。見る人の目を奪う紅と白の模様は、煙草の吸い殻と灰とですっかり隠されてしまっている。脂臭さを誤魔化そうという気でもあるのか、焚きしめられた白檀の香と煙草の匂いが奇妙に混じり合って、混沌とした匂いを作っていた。
 後で消臭剤でも買ってこよう。と、呟きながら畳み終えた洗濯物を抱える。匂いが移ってしまう前に、片付けなければならない。
「なあ、太郎ちゃん」
 立ち上がった太郎を、辰史が呼び止めた。
「何ですか? 叔父さん」
「良い子だから、お使いに行ってきてくれねえかな」
 まるで、小さな子供にでも頼むような物言いだ。馬鹿にされているようでもある。
 抗議をしようと叔父の顔を見返して、太郎はすぐに後悔した。毒蛇のような目とかち合う。蛇に睨まれた蛙のように硬直して言葉を待てば、辰史は胸ポケットの中から紙幣を数枚取り出した。
「お隣さんまで、頼むよ」
 言って、太郎の足元へ紙幣を放る。
 ――お隣さん、といえば〈幻影書房〉だ。
 古書店と銘打ってはいるが、こちらも蛟堂に負けず劣らず風変わりな店ではあった。
「本、ですか?」
「そ。『道成寺』と言えば、太郎なら分かるだろう?」
「『道成寺』・・・・・・安珍と清姫、ですか」
 物語の内容を思い出して、顔を顰める。少し露骨すぎたかもしれない。
「辰史叔父さん、本当に性格が悪いですね」
「そりゃどうも。俺にとっちゃあ褒め言葉だよ。ついでに煙草を20カートン――」
「駄目ですよ。母さんから、あまり吸うなと言われているでしょう」
 ぴしゃりと言って、太郎は足元から紙幣を拾い上げた。隣室へ続く障子を開けて、桐箪笥に洗濯物を押し込む。苦い顔をしている叔父の前を通り過ぎて玄関へ下りれば、
「まったく、いらんとこばっか姉貴に似やがって」
 後ろでぼやく声が聞こえた。