清姫





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 赤い絨毯の敷き詰められた床。落ち着いた光を放つペンダントランプ。ブックシェルフ――そのいずれにもディティールに凝った繊細な彫刻がなされている。中世の英国を思わせる、アンティークショップのようなその店の名は幻影書房。
 蛟堂と隣り合って店を構える、れっきとした古書店だった。
 百八十度様式の異なる二つの店は、江戸の中頃からこの場所に存在している古馴染みでもある。赤い革張りのアームチェアの上では、青年が眉を顰めている。
「道成寺ぃ? また、何で」
 くせのある髪が跳ねてしまうのを気にしているのだろう。彼は太郎の話を聞きながら、女子のように指で髪の裾を弄んでいた。青年の名を、名島瑠璃也という。太郎の友人で、幻影書房でバイトをしている。蛟堂と同等、もしくはそれ以上に客足の少ないこの店だが、店主は多忙らしい。日常的に店番を頼まれては大学を休みがちになることが、友人の悩みの種だった。
「仕事で使うらしいんだよ」
 太郎は溜息交じりに答える。
 辰史の仕事といえば、報復屋だが――報復と本との関連性に首を傾げるでもなく、瑠璃也は苦く笑った。
「仕事ねぇ。三輪さんも相変わらず、仕事熱心な人だな」
 感心と呆れを含んだ友人の声に、小さく首を振る。あの叔父に感心すべきところなどあるはずがない。
「仕事熱心と言うよりも、何よりお金が大好きな人だから。何に使っているのか、分からないけどさ」
「溜め込んでるとか。老後のために」
「そんなタイプに見える?」
「・・・・・・見えない」
 少し考えた末に、瑠璃也はあっさりと否定した。
「むしろ、闇金の元締めとかやってそうだよな。老後はさ。裏社会のボス、みたいな」
「冗談にしても妙にリアルだからやめてくれよ」
「俺も気をつけないと」
 いったい何に気をつけようというのか、友人は呟きながらぶるっと身震いをした。これ以上不吉な話題を続ける気にはなれなかったのだろう。
「そういえば、『道成寺』だったよな」
 不自然なほどに明るい声で話題を変えて、アームチェアから立ち上がる――
「ああ。ていうか、そもそもこの店に『道成寺』なんてあるのか?」
 瑠璃也は、棚と棚の狭い隙間を縫うようにして進んでいく。その背を追いながら、太郎は訊ねた。アンティーク趣味を持つ店主の影響か、ブックシェルフに並べられた本も外国の物語が多い。『道成寺』などといった和製の物語は、どうにもこの店に相応しくないように思われた。
「あるよ」
 答えて、瑠璃也が足を止めた。
 彼の前には、分厚い硝子戸の付いた棚がある。両開きの戸には、真鍮の錠が取り付けられていた。何となく物々しい雰囲気に、太郎はたじろぐ。友人は首からじゃらりと下げた鍵の束から金色の小さなものを探し出すと、躊躇いもせずに鍵穴へと差し込んだ。
 静寂に満ちた店内に、かちりと小さな音が響く。
 その瞬間を待ちかねていたかのように、硝子戸は両側へ大きく開いた。瑠璃也が小さく仰け反って、額を押さえる。
「瑠璃也っ!?」
 何が起こったのか――太郎は慌てて、友人の傍に駆け寄った。
「大丈夫か?」
「あー、大丈夫。ちょっと、ここにある本は強烈なのばっかりだからさ。少し思念に当てられただけ」
 いつも通り呑気に答えて、顔を上げる。瑠璃也は何事もなかったかのように腕を伸ばして、棚から赤い装丁の本を取り出した。
「強烈って・・・・・・」
 太郎はその意味を知っている。言葉の示す事実こそ、辰史が仕事に本≠必要とする理由でもある。
 幻影書房。得体の知れない店主、鬼堂六が営むこの店もまた普通の古書店ではない。曰く付きの本ばかりを扱う、日常と非日常の狭間に位置する店だった。
 ――曰く≠ニは何か。
 つまり、思念だ。人の強い想いが形を得たもの、とでもいうのだろうか。さまざまな登場人物の存在する本――物語は、特に人の想いを引きつけやすい。例えば、肉体を得た魂が人間≠ニして存在するように、感情や想いが何らかの器を得ることで生まれるのが思念≠セった。人から離れた想いや感情は、物に宿ることで生きようとする。そうした物の中でも尤も思念への変化を遂げやすいのが、本だ。
 本。物語。そこには、登場人物という格好の器≠ェ用意されている。憧憬、喜び、怒り、悲しみ――そうした様々な感情は、仮初めの魂として本の中の人物に宿る。読み手が最も共感した、自分の分身とも言うべき一人に。生まれた思念は物語の世界でひっそりと生きながら常に共感者を求めている。
 そんな思念の性質を仕事に利用しているのが、蛟堂だった。いや、辰史だった――と言うべきか。あの叔父は、思念の紡ぐ物語の世界を現出することを、殊更に好んだ。人の紡ぎ出す物語には、現実にも見られる人間関係が折り込まれている。が、勧善懲悪を基軸とした物語の世界では、悪が勝利することはない。人を裁くに最も適した場は、物語の中にこそある――というのが、辰史の持論だ。既存の物語に手を加え、報復の舞台を作り上げるそのやり方は、お世辞にも趣味が良いとは言えないが。
 幻影書房では通常、新たな持ち主を求めてシグナルを発する本と、何かを求める人との自然な出会いを推奨している。名島瑠璃也は、本の思念を引き寄せてしまう特殊な性質の持ち主で、だからこそ幻影書房で思念の扱いを学んでいる身でもある。
 思念慣れした彼がたじろぐほどの本。そこに込められた想いの強さを想像して、太郎は一歩だけ後退った。
 人の想いは、必ずしも美しいとは限らない。むしろ強く色濃く残るのは、負の感情である場合が多い。そうして、世の中に存在する物語の全てが、幸福な結末を迎えるというわけでもない。
 例えば、友人の手の中にある赤い本。――『道成寺』
 西牟婁郡真砂の庄司清次には一人の娘があった。その名を、清姫という。清姫はある時、奥州から来た一人の青年に恋をした。青年は安珍。彼に焦がれた清姫は、夜中に安珍の寝所へと忍び、契りを迫る。
 しかし、僧侶である安珍が清姫の願いを聞き入れることなどできるはずもない。彼は、そこで一計を案じた。契りを結んでくれと嘆き恨む清姫へ、こう言ったのだ。
 ――参拝奉幣の素願を遂行して、下向の際は必ず貴嬢の芳意に随従せん。
 今は熊野権現へ参詣する途中であるから、貴方と契ることはできない。けれど、帰りにまたここへ寄った暁には、必ず貴方の意に沿うようにしよう。
 結果的に言えば、この約束が果たされることはなかった。熊野権現への参詣を済ませた安珍は、清姫の許を訪ねることなく奥州へ立ってしまったのだ。旅人からその事実を聞いた清姫は、激怒した。
 後には悲しく凄惨な物語が続く。誰もが幸せになれないまま、物語は終わりを迎える。
 血のように赤い装丁は、そんな『道成寺』のストーリーも相俟って、本を不気味で恐ろしいもののように見せていた。いつまで経っても手を伸ばそうとしない太郎に、瑠璃也が少しだけ表情を緩めた。
「大丈夫だよ。あ、いや。勿論、普通のお客さんには売らないように言われてるんだけどね。蛟堂さんはお得意さんだし、うちの勝手も知ってるから。それに、ほら」
 本をくるりと裏返してみせる。裏表紙には、見覚えのある札がぺたりと貼り付けられていた。
「これ、うちの札じゃないか」
「そ。三輪さん印の強力なお札。これで思念を繋ぎ止めているってわけだ。剥がさない限りは平気・・・・・・だと思うって、鬼堂さんが言ってた。この手の思念には対策をしておかないと、俺みたいな体質の人間が危ないからね」
 そう説明する瑠璃也は、何故か得意気だ。「あと、まあこれは内緒にしていて欲しいんだけど――お隣さん同士の付き合いもあるから。ほら、うちばっか蛟堂さんに買ってもらうのって何か気まずいじゃんか? 三輪さん、すごく心の狭い人だし。あの人の作るお札は高いから、出来れば他から仕入れたいみたいなことを鬼堂さんも言っていたりもするんだけど――」と、小声で続ける。
「なるほど」
 とりあえず、頷いておく。幻影書房の内情はよく分からないが――瑠璃也がそう言うのなら、ひとまず安全と見て良いのだろう。思念にかんして言えば、少なくとも自分より友人の方が詳しい。ゆるゆると息を吐き出しながら、書架から離れる。硝子戸へ鍵をかけた瑠璃也が、後から引き返してくる。彼はレジに戻ると、再びアームチェアに腰を掛けた。ブラシで本の表紙を軽く撫でて、裏表紙をめくる。
「えっと、いくらだ? これ」
 値段を確認する手が、ぴたりと止まった。
「いくら?」
「・・・・・・五万」
「五万? それは、高いな」
 本の値段としても高いことには高いのだが、それ以上に――
「辰史叔父さんがそんなに高い本を使おうとするなんて、信じられない」
 太郎はぽつりと呟いた。甥のお年玉でさえ、千円も出したがらないあの叔父が。
「あの人が相場を知らないわけないもんなぁ」
「うん。知ってたと思うよ」
 太郎はごそごそとポケットを探る。渡された紙幣は五枚――五万円、丁度。
「あの人に狙われた相手が可哀想になってきたよ、俺。元を取るあてがあるってことだろ、つまりは」
 瑠璃也が苦笑する。
「だろうね」
 カルトンの上に紙幣を並べながら、太郎は肩を竦めた。
 元を取るどころか、この投資など話にならないくらい儲けようというのだろう。辰史は、他人に対する容赦や加減というものを知らない。いや――金での解決は辰史なりの容赦、なのか。
(地獄の沙汰も金次第、ね)
 叔父の好きな言葉を思い出しながら、太郎は嘆息した。
「太郎ちゃん、だいじょぶか?」
「まあ、慣れてるけどね」
「あまり危ないことはするなよ」
「瑠璃也がそれを言うか?」
「俺の場合は不可抗力なの。巻き込まれるだけなの!」
 瑠璃也が唇を尖らせた。
 お互いなかなか難儀な星の下に生まれてしまったらしい。
 太郎はもう一度だけ溜息を吐き出した。差し出された本を受取って、友人に背を向ける。
「じゃあ、また――」
 大学で。と、続けようとした太郎を、瑠璃也の声が遮った。
「あ! そういえば、三輪さんに鬼堂さんから伝言があるんだ」
「何?」
 顔だけで振り返る。
「うちの子をあまり悪事に使わないでくださいねって」
「・・・・・・一応伝えておくよ」
(多分、顔を顰めるだけなんだろうなぁ)
 容易に反応が想像できる。
 頼りなく答えて、太郎は力無く入り口のドアを引いた。蝶番がギィと鈍い音を立てる。店の外へ出て、ふと左隣へ視線を向ければ、辰史は外の長椅子に腰を下ろして、相変わらず煙草の煙を燻らせていた。