清姫






 案の定――辰史は「幻影書房」の店主からの伝言に、その形の良い眉を顰めただけだった。眉間に皺を刻んだまま、不快、というよりどちらかと言えば不可解だといったような顔をして、呟く。
「悪事、とはまた人聞きが悪いねェ。立派な人助けだろうに」
 と、本人には自覚がないらしい。
(判ってはいたけどね)
 太郎はがっくりと肩を落とした。少しは自覚してくれた方が、世間の為ではある。
「叔父さんのは人助けじゃなくて金儲けでしょう」
 無駄だと知りつつも、一応指摘しておく。辰史は憤慨したように鼻を鳴らした。
「勤労精神旺盛だ、と言って欲しいもんだ。生活をするためにゆとりとその生活自体を犠牲にするという矛盾を孕んだ労働意欲――日本人の鏡じゃねえか」
「ただの趣味のくせに」
 それも人助けではなく、金儲けが。
 じとりと睨む。けれど辰史は、悪びれた風もなく眸を細めただけだった。
「太郎ちゃんにもそのうち判るさ。金の素晴らしさが。金より素晴らしいものなんてこの世には二つしか存在しないぞ」
「二つも存在するんですか!?」
 驚いて、太郎は思わず大声を上げた。何より金を愛する叔父に、金以上に賛美するものがあるとは意外だった。
 本家の祖父――辰史の父親が今の台詞を聞いたら、卒倒してしまうだろう。実の息子から三流陰陽師と馬鹿にされ、その性格の悪さと金に対する異様なまでの執着心に手を焼いている彼だ。
「辰史と同じ空間にいるだけで、父様の寿命は一秒単位で縮んでいくのよ。太郎も気をつけなさいな」
 とは恐山で市子をする叔母の言葉であったか。兄弟にすらそんな評価をされている辰史は、太郎の驚きように「失礼な」と心底心外そうに呟いた。
「いいか、太郎。これは御祖父様の言葉だ」
 顎をついと上げて、
「御祖父様っつっても、頑固オヤジのことじゃねえぞ。俺の祖父、巫女と御祖父様のことだ」
 わざわざ言い直してみせるあたり、父親との仲は絶望的に悪いらしい。辰史は続ける。
「三輪家の男児として生まれたからには、将来的に備えなければならないものが三つある。一つは、金。何をするにも金は入り用になるだろう? RPGだって、金がなけりゃァ装備を揃えられない。ラスボスどころか雑魚にも手間取るなんざ、スマートじゃねェ。外道と言われようが、圧倒的な力で完膚無きまでに叩きのめしてこそ、男ってもんだ。そういうわけで、二つ目は力だ。金と力はしばしば同列に並べられることがあるが、これは間違いじゃない。むしろ金と力が必要だと言う人間に眉を顰めて下衆だと呟く人間こそ、人生のなんたるかを判っていない偽善者かただの負け犬だ。人間と言うのは恐ろしく嫉み深い生き物だからな」
 奇妙に喩えはお世辞にも分かりやすいとは言い難かったが――
「もう一つは? 三つ、あるんでしょう?」
 何となく続きが気になって、太郎は訊ねてみた。訊ね返されたことが意外だったのだろうか。辰史は、ふっと口を噤み――きまりの悪そうな顔をした。
「・・・・・・太郎にはまだ早ェよ。俺でさえ、知ったのは二十四の頃だ」
 仏頂面で呟いて、ぷいとそっぽを向く。
「はぁ」
「それまで、男を磨きなさい」
 珍しく叔父らしい言葉で締めくくりながら、彼は気怠げに立ち上がった。
「『道成寺』――買ってきたんだろう?」
 視線は、太郎の手元に注がれている。
「あ、はい」
 頷いて、太郎は本を差し出した。
 骨張った手が、血のように赤い装丁の本を攫っていく。無遠慮な手付きで本の状態を確かめた彼は、唇の端をニィッと歪めて――どうやら笑っているらしかった。実のところ、太郎はそんな叔父の表情が好きではない。細められた眸は、うつしよの人が知らない何かを知っている。自分には見えない何かを、見ている。
 目を見るだけで、姿を石に変えてしまう蛇・・・・・・どこかの国はそんな伝説が伝わっていた気がするが、彼の瞳はその化け物を思わせた。冷たい黒曜の瞳には、毒が滴っている。
 辰史は赤い舌で自身の上唇を舐めて湿らすと、ぞっとする程に澄んだ声で太郎の名を呼んだ。その手は、本の裏に貼り付けられていた札を躊躇うことなく破いている。太郎は思わず「あっ」と声を上げた。
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。・・・・・・太郎ちゃんが、こいつに透かれるような後ろ暗いことをしていなければ、な」
 人の悪い笑みを浮かべ、本を再び太郎の手の中に戻す。
「末永さんちにお届け物だ。電話はしてあるから、稲荷運送に持って行ってくれ」
「僕が行くんですか?」
「どうせ買い物にも行くんだろう? ついでだ。ついで」
「叔父さんは?」
「俺は、しばらくは高みの見物」
 まったく、いい気なものだ。
 憎らしいほどにあっさりとそう告げた辰史に、太郎は胸中で毒づいた。式の屍喰――鴉の姿をしているが、実際はただの紙切れにすぎない――が舞い降りて、太郎の肩へ止まる。体重を感じさせない式神は、その気味の悪い独眼で太郎の瞳を見下ろした。「カァ」本物の鴉を真似て鳴く声の、なんと人を馬鹿にしたことか。太郎は式神の目を睨み返して、苛立ったように低く呟いた。
「退けよ」
「屍――」
 苦笑した辰史の声が式を呼ぶと、独眼の鴉はひらりと青空へ舞い上がった。叔父の手足となって動く便利な式神は、彼が自堕落である原因の一つともなっている。火を点けて燃してしまいたい衝動を堪えて、太郎は代わりに重たい息を吐き出した。何度目の溜息になるかは、考えたくもない。
「若いうちから溜息ばっか吐いてると、禿げるぜ。太郎ちゃん」
「誰のせいですか! 誰の!」
 にやにやと笑う叔父を一度だけ睨みつける。そうしたところで、どれほどの効果もないと知らないわけではなかったが。
「・・・・・・じゃあ、行ってきます。夕飯までには帰りますから」
 三度、溜息。原付なら、買い物の時間を含めて小一時間で足りるだろう。無意識に時間を計算している自分に気付いて、太郎は頬を引き攣らせた。まるで、家政婦だ。



「行ってらっしゃい」
 もう大分小さくなった太郎の後ろ姿を眺めながら、辰史は小さく苦笑した。少し、苛めすぎたかもしれない。甥の背中は、拗ねているようにも見える。
(別に、気に入らないってわけでもないんだが・・・・・・)
 あの甥は、一族の中では随分とまともだった姉に良く似ている。真面目で、しっかりしていて、やはり一族の方針に良い顔をしなかった、賢い姉――そんな彼女によく似た甥を、辰史としては気に掛けているつもりなのだが。
「やれやれ。難しいもんだな」
 呟いて、肩をすぼめる。頭上では辰史に同意した屍喰が、カァと一声甲高く鳴いた。