墨色の夢





 術者は、ときに思念が抱える業の一端に触れてしまうことがある。

 それを夢と自覚しながら、三輪辰史は苦い面持ちで目の前の男を見返した。道成寺における主人公の一人。男の狡さと弱さの象徴。美僧、安珍。それが、辰史を恨めしげに見つめてくる男の正体だった。一番新しい想いを取り込んだ彼は、例の詐欺師――末永崇之の顔で己の境遇を嘆いている。その瞳に、かつての余裕はない。追われ続けなければならない存在としての焦燥感をまといながら、彼は長いことそうしてただ佇んでいたが、ややあって口を開いた。
 ――わたしは、いつまで追われ続ければいい?
 安珍の声で。彼と同じように追われた男たちの声で。末永崇之の声で。
 ――救いが必要だ。

「それは俺の職域じゃァない」

 辰史は答えた。
 この手のやりとりは今に始まったことではないが――少し考えれば当然のことではある。想いを晴らす者がいる一方で、こうしてひたすらに罰を受け続けなければならない者がいるというのは――それでもややうんざりとしながら、辰史は続けた。

「いつか賢い安珍が現れればお前も少しは報われるんだろうが、それは運としか言いようがないからな。自分の抱える業の深さを恨むしかないだろう」

 ――いつ。
 と、また思念。

「それこそ、俺の知ったことじゃない」

 辰史が肩を竦めると、それはほんの少しだけ落胆の気配を濃くした。
 ――お前は、どうして他人事のような顔ができるのか。

「そりゃあ他人事だからな。馬鹿な男がまた一人、お前の仲間になったってだけだ」

 ――わたしは愚かか。

「そうは思わない。だが、俺にはお前の気持ちを理解することもできない」

 答えて、辰史は男から少しだけ顔を逸らした。嘘だ。実を言えば、まったく理解できないというわけではなかった。追われる者の恐れを、ごく身近にいる親しい人の気持ちとして懸念したことはある。そんなこちらの胸の内を知ってか知らずか――いや、知るはずもない。彼は思念だ。同じく安珍となるべく運命を負った人に共感を示すことはあれ、無関係の想いを汲み取ることはない。或いは清姫に変じる可能性を持つ人の想いならば、感じることもあるのかもしれないが。安珍は深く俯いて、己の境遇を嘆くばかりである。
 ――お前にもいつか。いつか、分かる日が来る。わたしの気持ちが分かる日が来る。果たせぬと分かっている約束を交わさねばならなかった、わたしの気持ちが。
 ぼんやりと浮かび上がっていたその姿は次第に闇に溶け込むようにして消える。一人残された報復屋は僧の消えた闇を哀れみの浮かぶ瞳で見つめながら、分かるものかと吐き捨てた。

「俺は追うことはあっても逃げることはしない。できない約束もしない」

 首から提げた銀の環を無意識になぞろうと手を動かして――そこで、夢はぷつりと途切れた。水の底から引き上げられる感覚に、胸が詰まる。再び目を開けると、そこは見慣れた恋人の部屋だった。カーテンの隙間から淡い朝日が差し込んでいる。ゆっくりと瞬きして夢から覚めた現実を自覚すると、辰史は深く息を吐いた。

「まったく、女々しいもんだな」

 とは夢にまで出た安珍のことか、或いは。自分でもどちらのつもりで言ったのか分からないままに、視線を右隣に向ける。ぴたりとくっつくわけでもなく、かといって大きく隙間を空けるでもなく、控えめに寄り添っているのは部屋の主。つまりは、比奈だった。こちらの気配を察したのか、まだ半分くらい夢の中にいるような声で――辰史さん――と呼んでくる。眠たげに目をこすっている比奈の手を取ると、辰史はその体をぐいと引き寄せた。

「安珍が、来た」

 耳元で囁く。告げずにはいられなかったのだ。比奈を不安がらせたかったわけではないが。じっと見つめると、やがて比奈は腕の中で小さく身じろぎして、こちらに手を伸ばしてきた。あたたかな指先がやんわりと目蓋に触れる。慣れたぬくもりにほっとして、辰史は続けた。

「大したことじゃァないんだが、恨み言を言われたよ」
「どんな」
「救いはないのか、とさ。追われ続けることの苦痛だとか、果たすことのできない約束を結んだヤツの胸の内だとか。俺は、理解できないと逃げちまった」
「逃げ、ですか?」

 眉をひそめている比奈に、苦笑で答える。

「理解できないわけじゃァなかったんだ。俺は……」

 ――比奈、お前になら分かるのかもしれないって。
 そうだ。自分は、安珍ではない。激しい執念で運命を絡め取られたことを考えると、比奈の方が安珍であるのかもしれない。と、辰史はふと不安に駆られたのだった。
 瞬間、狼狽した比奈の手が僅かに浮いた。その手の下からそっと彼女の顔を見つめると、黒狐が宿主の代わりに頭をもたげて見返してきた。獣の紅眼に浮かぶのは、微かな怒りと非難だ。比奈をいじめてやるな、と言っているようにも見える。

「……分かりますよ」

 辰史の目蓋から離れた手が、黒狐の狭い額を撫でてなだめた。比奈の瞳が狐と同じくぽうっと明るく、赤く光る。

「ねえ、御霊」

 比奈は影の狐に呼びかけた。黒狐はくぅんと甘く頷いて、すっと影の中へ戻っていく。その光景をぼんやりと眺めていた辰史は、比奈の視線で我に返った。苦笑か、いや自嘲か。酷く自虐的な顔をしている恋人は、続けた。

「家を出て半年くらいは、高天の人間が報復しに来るんじゃないかと疑い続けていましたし。二度と御霊に人を傷付けさせることはしないと約束しましたけど、もしかしたら……なにかの拍子に、ふっと感情の箍が外れてしまうんじゃないかと思うこともあるんです」
「違、俺が言いたいのは――」
「強引すぎるって、自覚はあるんですね」

 互いの意図するところがずれている。そう思って遮ったのだが、逆に会話の流れにぴたりとはまる言葉で返されてしまって、辰史は返事を詰まらせた。

「もしかして後悔しているんですか。性急に、運命だと決めつけてしまったこと」

 比奈は唇をほんの少しだけ微笑ませている。なにを考えているのか。それこそ狐につままれた心地で、辰史もようやく言い返した。

「そういうわけじゃない」
「だったら、もう少し信じてほしいものなんですけど」
「なにを」
「わたしは、辰史さんの強引なところも好きですよ。扱いに困って付き合っているわけでもありませんし。というか、そう疑われていたという事実にすごく傷付きましたよ」
「だから、そういうわけじゃねえって」
「辰史さんって、たまにそうやって試すようなことを言いますよね。わたしが困っているのを見て、楽しいですか?」

 怒っているわけではないのだろうが――微笑みが、かえって恐ろしい。真綿で首を絞められるような、穏やかな抗議に耐えかねて、辰史は両手を小さく胸の前で挙げた。
 降参だ。

「俺が悪かった。当てつけようってんじゃないんだ。ただ――俺がしつこいせいで引っ込みが付かなくなってんだとしたら、とか考えちまったっていうか。まあ、いつものあれだ。俺ばっかり、好きなような気がするってやつ」

 そんなことを言えば、比奈はまた心外だと言うのだろう。分かっていたが、どうにも言わずにはいられず正直に告げる。が、返ってきたのは苦い否定でも溜息でもなかった。

「辰史さんがそう思ってくれているなら、その方がいいような気もします」
「なんでだよ」
「どちらが清姫か……なんて話になって、自覚した安珍に逃げられてしまうのも嫌なので」

 言って、胸のあたりに頬を寄せてくる。ぞくり、と思わず寒気を覚えるような執着の一端に触れた気がして、辰史は呆気に取られた。唖然としつつ――どうやら照れているらしい恋人のうなじを見つめながら、言葉の意味を考える。
 理解できたのは、たっぷりと十秒経ってからだった。それでもいくらかは疑わしい心地で、辰史は恋人を凝視した。

「……お前でも、そんなことを言うんだな」
「言わせたのは辰史さんですよ」

 見つめ返してくる――恨めしげな赤い目は、反面でどこか悪戯っぽくもある。

「ああ」

 違いない。
 辰史はそれを認めると、比奈の体を抱きすくめた。夢に見た不安は朝の光に溶けて、今はほんの少しの幸福感だけが残っている。我ながら現金なものだと苦笑して目蓋の上に唇を落とせば、臆病さと恐ろしさを兼ね備えた恋人はおずおずと目を瞑って口付けに身を委ねたのだった。