オタク野郎とコカトリス





【コカトリス】雄鳥をトカゲ、或いは蛇と合わせた姿を持つ伝説上の生き物。見た者や、その吐息に触れた者を石化させる能力を持つと言われている。同じく邪眼によって人を石化させると言われる王冠を戴く蛇、バシリスクと混同されることもある。


 僕はその男が嫌いだ。
 政治家の息子。金髪の同僚。僕をオタク呼ばわりする男。
 彼は今、デスクに足を載せたなんとも行儀の悪い恰好でゲームをしている。書類整理の一つでもすればいいのに、僕がこれみよがしに溜息を零してみせても素知らぬ顔だ。たまに歯を軋らせるような音が聞こえてくる。きっと、面白いんだろう。僕の苛立ちとは反比例に、彼は上機嫌だ。彼と少しでも関わりのある人は、いや、それを実際に聞いたことのある人は、すぐに気付く。歯軋りよりは愉しげで、人を小馬鹿にしていて、耳障りなその音が彼の笑声であることに。いや、声ではないのかもしれない。どこからその音を出しているのか、彼に訊ねてみたことはない。考えてみると声にしては少し奇妙な気もするし、けれど歯軋りであると断言してしまうには、やはり明らかな嘲りを感じさせるのだ。

「なに見てんだよ。オタク野郎」

 ああ、これだ。オタク、オタク野郎、オタクちゃん。決してオタクではない僕をそう呼ぶ。その一言で、彼の人となりが分かるというものだ。まったく嫌になる。
 見ていたつもりはないのだけれど(何度も言うが、僕は彼が嫌いだ。仮に僕がランプの精を見つけたら、真っ先に彼をクビにしてくれと願うくらいには嫌いだ。上司が呆れ顔で「ささやかすぎやしないかい」と言ったその願い事を、僕はささやかであるとは思わない。多くの人が望むであろう大金や不老長寿と同じく、彼のいない平穏も僕には決して手の届かないものであるのだから)視線ではなく、思念のようなもので感知されてしまったのかもしれない。
 彼は鋭い。鈍ければまだ可愛げもあるのに、他人の気配を、感情を、思考を、鋭く読んでみせる。そのくせ、口を噤んでいるということを知らないのだから最悪だ。自覚もなく人を侮辱するし、自覚もなく悪意をふりまいている。
 それが彼だ。彼という人間はコカトリスによく似ている、と僕は思う。王冠を戴いた毒蛇ではない。それでは駄目だ。やかましい雄鳥が、彼には似合っている。鋭すぎる目を持つ男。口を開けば毒を吐く男。他人を右往左往させて、奇妙な笑声を立てる男。まさしく、悪意ある怪物だ。

「見てないよ」

 と僕は答える。
 たまにもっと汚い言葉で罵りたくなることもあるけれど、我慢する。
 彼がライフワークのために人から過剰な反応を引き出したがることは知っているし、僕の方が彼より一つか二つ年上だったはずだから。大人は我慢するものだ。
 ――それが人間関係を円滑にするための秘訣だよ、他人に過度な期待は禁物だ。
 とは、やはり上司の言葉だったか。
 僕の職場にはまともな人間がいない。このコカトリスのような後輩に、人間不信気味で意思疎通にやや難のある先輩、そしてなんの役にも立たない警句をそれらしい顔で語ってみせる詐欺師のような上司。ああ、言われるまでもなく、過度どころか爪の先程度も期待なんてしていないけれど、もう少しくらい話の通じる人間がいてくれたっていいじゃないか――と、僕は不満を零さずにはいられない。
 それとも世間の人は、もっと慎ましやかに生きているとでも言うのだろうか。自分以外のすべてを宇宙人かなにかのように感じながら?
 そんな馬鹿な。いや、馬鹿なことじゃないのか?
 もしかして、よくあることなのだろうか?
 分からない。けれどこの世に神様がいるのなら、僕の願いが過ぎたるものでないならば、一人でいい。一人でいいから、常識を知る人を僕の元に遣わしてほしいと、そう思う。
 そんなことを――いつものように――考えていると、不意に彼が声を掛けてきた。

「なあ、オタク」
「なんだよ」

 無視をしてもうるさいので、仕方なく答える。
 彼が続けてくる。

「知ってるか。今度、雑用が来るんだと」
「雑用?」

 知らない。聞いたことがない。
 彼の唯一の美点として挙げられるのが嘘を吐かないことだけれど、そればかりは事実だと思えない。だって、そうだろう。たった四人の部署に、雑用なんて必要ない。雑用ではなく新しいメンバーが欲しいと思うことはあるけれど、彼の口ぶりからするにそういうわけでもなさそうだ。

「お前が頼んだのか?」

 それは、大いにあり得る。
 彼ときたらなんでもありだ。なにをしても許されると思っているし、周りもそんな彼に手を焼いて結果甘やかす方向で放置しているようなところがある。たとえば専属の雑用一人を与えて彼が大人しくなるのなら、喜んで生贄を探すだろうとは思えた。
 けれど――訊き返すと、彼はかぶりを振った。

「いいや? 俺、そこまで厚かましくねーし」

 これは嘘だ。嘘か、或いは冗談ではなく、本気で自分をそう評価しているのだとすれば、それこそ厚かましい。そうでなくても厚かましいのにと僕が小声で呟くと、地獄耳で聞きつけたのか彼はじろりと睨んできた。その、忌々しい目で。

「なんか言ったか、オタク」
「いいや、別に」

 別に。なにも。
 僕は肩を竦めて、また書類整理へ戻っていく。なんでもない顔をしつつ、その話題に興味のないふりをしつつ――本当に愚かだと思いつつも、内心ではやはり期待せずにはいられなかった。

「その雑用さんが常識人であることを願うばかりだよ、僕は」