肩書きのない新人と名のない男





「なあ、大丈夫なのか?」

 と、俺は訊かずにはいられなかった。
 通称“KEEPER”――正義感丸出しの、だっせえ名前だと俺は思う。最初にそれを言い出したやつはセンスがないどころか、頭のネジが一本二本飛んでんじゃねえかとも――の監査が入ることに決まったのは、昨日の話だ。つまり最新情報だった。
 オタク野郎と電波入った先輩の耳には入ってないだろう、その話を俺が知っているのは偶然でもなんでもない。世の中がそういうふうにできているから、だ。

「大叔父貴にでも頼んで、揉み消してやろうか?」

 重犯罪予測対策室。と仰々しい名前のつけられたこの部署のリーダーに、俺は問いを重ねる。すると、やつは呆れ顔を作ってみせた。

「あのなぁ」
「なんだよ」
「お前はどうしてそう、問題を大事にしたがるんだ」
「はあ? 問題が起こる前に消してやろうってんじゃねえか」

 名前は知らない。この男は頑なに自分の名前を隠している。秘密主義にしても少し異常だ。俺はその理由を知りたいとも思わないし、名前もどうだっていい――が、一般的にはそうじゃねんじゃねえかって思ったからこそ気を遣ってやったってのに。
(問題を大事にしたがるだ? ふっざけんな)
 親切心に水を差された心地で、俺はやつを睨み付ける。

「んなこと言ったって、あんたはどうするつもりなんだ。その、名前」
「うん?」

 なんの話だと、狸オヤジは首を傾げている。気持ちわりいなと蹴飛ばしてやりたい気分で、けれど寛大な俺は思いきり顔をしかめてやるに留める。名前だよ、名前。てめえ、審査官を相手にまさか名無しで通すわけじゃねえだろな、と問い詰めると、やつめ――ああ、そのことか――ときたもんだ。

「勿論、考えているとも」
「へえ?」

 俺は半眼で訊き返す。
 こいつの「考えている」が当てにならないことはこの一年で嫌と言うほど思い知らされた。とにかく、悪ふざけと無責任という言葉が服を着て歩いているような男だ。

「偽名だよ、偽名。ノーマン・リーダスとかさ。私にぴったりじゃないか」

 案の定、これだ。
 本気で言っているなら馬鹿すぎるし、そうでないなら人をおちょくる名人様だ。

「ふざけんな。鏡見ろ、鏡」

 吐き捨てながら、手鏡を投げてやる。やつは慌てて受け止めて――目元とか少し似てないかね――と厚かましいことを呟きやがった。それからニヒルに笑って(悪党面だ)、俺に向かって見えないボウガンの矢を放つ。
 すっかり件の俳優になりきって、鬱陶しいことこの上ない。ああ、今すぐにでもゾンビに噛まれちまわないかな。こいつ。と、俺は心から願った。どうにもならないことを願うのは、飼い犬が死んだとき以来だ。

「はい、死んだ」

 やつが爽やかな顔で笑う。俺は笑いもせずに言い返した。

「あんたが死ね」

 くっそ捻りのねー悪口だ。だから嫌なんだ。こいつと言い合うのは。まるで自分が馬鹿なガキみてーにあしらわれていると錯覚する。

「上司に向かって暴言を吐くんじゃないよ。お前ってやつは」
「先に部下を射殺しやがったのはどっちだ」

 いらいら。いらいら。
 こうして話の核心を誤魔化そうとするところも――実を言えば苦手だ。いや、苦手じゃない。腹が立つ。むかつく。無性に殴り飛ばしたくなる。この“目”で見て、吐かせたくなる。その衝動を、抑える。衝動に突き動かされて行動するのは被験者だけでいい。俺は、研究者である俺は、常に理性的であらねばならない。
 一つ。二つ。三つ。呼吸を数えて、感情を宥める。と、俺が平静を取り戻したそのタイミングで、やつが続けてきた。

「問題はないさ。少なくとも、お前が考えているほどには深刻じゃない」
「へえ?」
「簡単な話さ。例の機関に旧友がいてね、そいつに無能を寄こすよう頼んだ」
「どうせ口約束だろ? 胡散くせー話」

 と、俺は思う。
 その旧友とやらがどれだけ信頼できるのか知らないが、こいつにしては楽観的だ。それとも他になにか仕込んでやがるのか――勘繰る俺がよっぽど意外だったのか、やつは初めてそのポーカーフェイスを曇らせた。

「お前が、やけに難しく考えるじゃないか」
「まあな。なんせ、あんたが信用ならない」
「と言うと?」
「類は友を呼ぶって諺、知ってっか?」

 この詐欺師じみた食えない男が易々と一杯食わされるようには思えなかったが、とりあえず忠告しておく。こいつだって多分、人の子だ。万が一、億が一くらいには無条件で旧友を信じて騙されることもあるかもしれねえからな。

「あんまり気を抜いてやがると、その旧友とやらに一杯食わされっぞ」
「ふむ。その可能性は考えなかったな」

 顎に手を当てた仕草で、やつが頷く。なんともわざとらしい。

「あんた、本物の嘘吐きだな。あんたみてーなのが何食わぬ顔で警官やってっかと思うと、俺はぞっとする」
「……お前に言われたくない、と言ってもいいところだよな? ここは」

 やつのぼやきはいつも通りさらりと無視。無視するに限る。

「ま、なんにせよ心配する必要はなさそうだな」
「心配? わたしは逆に不安だよ。お前の口からそんな単語を聞くなんて」
「あんた、俺をなんだと思ってんだ」
「上司という言葉の意味も知らない、やりたい放題の部下」

 歯に衣も着せず言ってくれる。
 こういうところはなんとなく親父に似ていて、嫌いじゃない――それを言えば、やつはまだそんな歳ではないと落ち込むんだろうが。目の前で肩を落とされてもかなわないので、俺は代わりに言ってやる。

「あんたが上司らしくないから悪いんだろが」
「そう思っても、普通の部下は口にしないんだよ」
「俺は普通じゃねーし」
「自分で言うんじゃない、まったく……」

 やつがうんざりと溜息を吐く。俺はキシシと笑って、関係ねえなと言ってやる。
 そうだ、俺には関係ない。一般的な上下関係も、組織の中での責任も。そう、責任――つまり緊急時ための装備品として与えられた拳銃を、初日に試し打ちしてしまうような人間には期待されないもの。俺には決して割り振られないようになっているもの。こいつに課せられたものだ。

「俺は知ったこっちゃねーが、精々その“無能”とやらに泣かされねーようにな」

 恰好良く警告してやろうと思ったんだが、間違ったような気もする。
 ま、瑣末か。
 どうしてこう、私の部下は私の味方をしてくれないんだろうな――と手鏡を抱えて泣くやつの脇腹のあたりを肘で小突いて、俺は“予測”の貼り付けられたコルクボードからメモを一枚剥がした。