お喋りな悪魔の無意味な話(1)





「夢とは何だと思う?」

 お喋りな悪魔が問うた。
 忙しい忙しい、と口では言いながら実のところ暇を持て余しているらしい。ふいごを足で踏みながら質問には答えずに、

「お前はベリアル公の使いを果たしてきたのか?agitator」

 逆に訊き返してやれば窓辺の悪魔は主君に良く似たその美しくも――醜悪な魂を映した顔を微笑ませて闇色の翼をぱたぱたと動かした。

「次の新月まではキャベツ畑へ行く必要もない。アスモデウス公のところへは昨日行ったばかりで、マモン公やベルフェゴール公へも抜かりなく〈招待状〉は渡してきた。君が思うほど私は怠惰な悪魔ではないよ」
「そのようだな」
「そういうわけで、勤勉な私はこの〈招待状〉を渡す最後の一人――君の主であり、この地獄の竈の管理者でもあるグザファン公を待っているのだ。もう三日三晩もね」

 手元へ黒色の招待状をパっと表して嫌味な悪魔は鼻を鳴らす。

「三日三晩、私がふいごを踏む足を止めずに君のお喋りに付き合わされていることも忘れてくれるなよ。そんなに忙しいのなら、招待状をそこへ置いて帰れば良いだろう」

 私がグザファン様に渡すから、と言えば煽動者の名を持つ悪魔は大仰に肩を竦めて見せた。

「馬鹿を言うなよ。我が君は、あの麗しき大公様は、私に“グザファンにこれを渡してこい”と仰ったのだ。君に渡して帰るような無責任な真似をしてみたまえ。例えばふいごを踏むことに夢中な君が、この招待状が窓辺から落ちたことに気付かなかったとしよう。もしも、もしもだ。そうして床へ落ちた招待状が君がふいごで火を起こし続けるその竈の中へ入ってしまったとしたら? グザファン公はこう言うだろう。“ベリアルの奴め!私だけサバトに招待せぬとはどういう了見だ”と。何の言い訳も聞かずにね。何と言ってもグザファン公と言えば地獄の竈で燃えさかる劫火よりも激しやすいことで有名だ」

 ああいえばこういう。
 その万が一、は起こり得るはずもなかったが、大仰な手振りを交え、神妙な顔つきで言われてみれば成る程。相手を、そんなことがもしかしたら起こるかもしれないという気にさせるのだから、agitatorというその名は伊達ではないのだろう。美しい嘘と虚無を好むベリアル公に寵愛もされようというものだ。

 ――炎の勢いが、弱い。

 私は慌てて激しくふいごを踏みしめる。
 罪人を焼く地獄の業火――その竈の管理者が私の主君、グザファン公である。
 我らが尊き王が、偉大なる御父君に反旗を翻した際に神々の住まう国を炎で焼き払うことを提案したのが我が主であるという――私はそれほど昔から生きている悪魔ではないから詳しいことは悪魔伝手にしかしらないのであるが、そういうわけで反乱に失敗し地の底へ落とされた際に我が主は永遠に地獄の竈の火を焚き続ける罰を与えられたのだった。
 それによって我が主はおのおの好き勝手宮殿を築いた他の公らとは違い、地獄の竈を住処とせねばならなくなったわけだが、実際のところ罰を与えられたとはいえ神々の目が地底の奥まで行き届くはずもない。彼らは天上でゆるやかに暮らしているか、厳しい監視の目を地上に光らせているかのどちらかであり、地に堕ちたる者どもの末路など爪の先ほども気にかけてはいない。
 唯一全てを見通すことの出来る存在があるとしたならば、それが偉大なる――名を出すことも憚られる御父君ではあるが、彼の存在はいつでも自分から動くことをしないのだ。そういうわけで、反乱からもう大分時の流れた――私のような反乱を知らぬ悪魔が生まれた今となっては、地の底での暮らしはまだ見ぬ天上よりも快適であろうと思われたし、一時は半数以下にまで減ったという悪魔の数もあっという間に増大し、ここ地獄の竈にはグザファン公以外の、私のような下っ端の悪魔が多く棲むようになった。
 ふいごを踏むのは、勿論我々下っ端の悪魔である。我々が月毎に交代でふいごを踏み続けている間、グザファン公は書斎で罪人の書類を作成する。最後の審判の日にベリアル公へ渡さねばならぬらしい。地の底で一番忙しいのは、我が主君ではないのかと私は思う。
 例えばベリアル公など美しいものを愛で、炎の戦車を操っては天使にも劣らぬその麗しい姿で虚言を吐き、取るに足らぬ人間どもの右往左往する様を見ては楽しむ始末であるし、ベルフェゴール公は大概自身の宮殿に籠もったきりで、アスモデウス公との討論以外では滅多に公の場へ姿を現さない。そのアスモデウス公はといえば、まあ、有名な通り――淫らな宴に耽るばかりである。マモン公は金の為ならば働くが、逆を言えば金にならぬことの為には指一本動かそうとしない。
 よくよく考えずともろくでもない連中ばかりではあるが、だからこそ御父君に反旗を翻そうなどという無謀なことを考えついたのだろう。


 ぼんやりとそんなことを考えていれば、agitatorは尻のあたりから生えた鞭のような尾を退屈そうにしならせながら、

「何を考えているんだい、君は。客人が目の前にいるというのに実に失礼じゃないか」

 そう鼻を鳴らした。
 客人?
 私はふいごを変わらず踏みしめながら、肩を竦める。

「私は仕事中だ。agitator」
「土竜ではないからね。見れば判るさ」
「ならば、」
「何故、重要な仕事――竈の火を燃やし続ける君の仕事を邪魔するのかって?」

 agitatorの尾が挑発的に揺れる。秀麗な、それでいて魂の醜さが浮かぶ、彼の主に良く似た顔が歪められた。薄い唇の端が捲れ上がり、そこからのぞくのは真っ白な鬼歯だ。

 いつでも弱者を気取ったべリアル公の寵愛を受けるこの悪魔は、本当にか弱く脆い存在であるのか?
 勿論そんなはずがないことは、普段このお喋りな悪魔が付き合う面子を見ても明らかである。アスタロト恐怖公に、鶫総統のカイム。偉大なる色欲の王、アスモデウス公。強欲な富者、マモン公。誰も彼も、下級悪魔になど見向きもしない大物ばかり。当人は――人ではないが――己の仕事を「キャベツ畑に呪を撒き散らすことである」と騙っているが、彼の名を聞けば誰もが彼の役割を即座に理解するだろう。
 即ち、agitator。
 彼は煽動する者である。
 喉が震えて、唇から紡ぎだされる言葉。時に優しい猫なで声で甘言を弄し、時に尤もらしい熱弁をふるう。天使を弾劾し、時には悪魔にさえ毒づき、人を憐れみ、人に寄り添う。けれども彼に寄り添われた人間で、幸福の内に人生を全うした者が果たして存在しただろうか?
 答えは、否だ。
 ちっぽけな見た目、人懐こいお喋り癖、そうして人間には永遠に知らされることのない真実の名。その全てが人にとっての大敵であることに、人が気付くことは無い。

「それが知りたいのなら、君も集会に参加するといい。次の月は丁度竈の番も交代だろう?」
「集会に参加をしたら判るのか?」
「ベリアル様が居られるからね。自分ではそうは思わないのだが、私はお喋りであるらしい。その理由を君から訊いてみてくれないか?」
「自分のことなのに人に訊かねば判らないとはおかしな話ではないか」
「私は君とは違うからね」

 と、ただそれだけ言ってふふっと笑う。

「私は誰より私自身のことを知らないのだ」
 
 と、言うのは嘘ではないのだろう。
 agitatorは視線をふいごへと向けた。

「私は君らよりは外界のことを知っている。天使のことも、まあ、知っているといえば知っていると言えるだろう。人間に関しては言わずもがな、だ。美しい我が君が嘆く程には私は人間と交流がある。けれども何故か――」

 ぱちり、と炉の中で炎が弾ける。お喋りな悪魔は、それに合わせてしなやかな尾を跳ね上げ、私の視線に気付いたように再び眸を上げた。マモン様の好む宝石のように美しい瞳が、微かな憂いを帯びている。
 薄い唇が開いた。

「死んでしまうのだ。皆。人とは天使より、我らより不思議な生き物だ」

 嘆くような、それでいて不思議そうな問いにも似たその言葉に、私の背筋へ怖気が走る。
 ――不思議、だと?不思議なものか。