お喋りな悪魔の無意味な話(2)




「agitator」
「不思議だ。判らない。そう首を傾げれば私の主君は――誰より堕落を推奨し虚無を好むあの優美なお方は何もかも知ったその顔をほんの少しだけ微笑ませるのだ。マモン公も、アスタロト公も、カイムでさえも。私だけがその理由を知らない。私は私自身のことを知らない。誰も教えてはくれない。ただ――」

 ――agitator。

「そう、私の名を呼ぶのみだ」

 ああ、ああ、ああ。
 私は目の前で笑うお喋りな悪魔が急に恐ろしくなった。
 皆、彼に答えを示している。明確な答えを。agitatorというその名を、答えとして提示している。と、いうのに――
 私の足が止まった。煽動者の名を持つ悪魔は、私の足元へ視線を向けて、

「炎の勢いが弱まっている。ふいごを踏まなくてもいいのか?」

 子猫のように喉を鳴らした。
 私ははっと我に返って、足を動かす。agitatorから視線を逸らせば、心持ち落ち着いたような気がした。片腕で額の汗を拭いながら、私はからからに乾いてしまった喉の奥から声を振り絞る。

「人は、人だ」
「知っているさ」
「我らと同じ悪魔でもなければ、お偉い天使の連中とも違うし、北の果ての山に座す御父君とも違う」
「ああ、君の言う通りだ。まったく、その通り」

 実に残念なことではあるが、我々の存在も、言葉も、か弱き人の子にとっては全てが猛毒となるのだ。我々の言葉や知識を有用することができるのは、賢者と呼ばれる人の限界を知る人間のみである。いと高き玉座に座す御父君か、その下に集う天使らの力を借りた敵対者こそ人の中には生まれもするが、気軽な話し相手に選ぶにはその存在はあまりに儚い。

「小さな器に水をたくさん注いだならば、水は溢れてしまうだろう?agitator」

 言葉を選んで遠回しに指摘をしてやればagitatorは、

「そんなものか。私は人間という器を溢れさせてしまう程のお喋りをした覚えはただの一度だってないのだけれどね」

 そう、肩を竦めたのだった。

「それで、何の話をしていたのだったか」

 他者との無意味な会話を好むこの悪魔が、そうやって最初の話題を忘れてしまうことは良くあることである。
 agitatorが細い顎へその華奢な手を当てて至極真剣に考えている間、私はひたすらふいごを踏んでいた。これこそが私の仕事で、これこそが正しい日常の在り方だ。

 グザファン様がお帰りになられるまでagitatorがそうやって悩んでいてくれることを私は切に願った。轟々と燃えさかる地獄の炎が、美しい。炉の壁へと反射して、橙、赤、紅、朱といった明るい色が視界の中で踊る。この遙か上方には罪人たちが許しを請うて歩き続ける煉獄が存在するのだ。
 その光景を見たことはないが、恐らくそこには物語の中で焼けた鉄の靴を履かされ踊り狂う魔女よりも滑稽で、哀れな人の姿があるのだろう。御父君に懺悔の絶叫を捧げる人々の姿を想像して私は眸を細める。私はこの、機械的で退屈な仕事が嫌いではなかった。
 何より、グザファン様の許で働く現状は私にとって誇るべきことである。
 我が君であるグザファン様は炎の戦車を操るどこぞの淫猥な大公殿よりよっぽど誠実であるし――悪魔に誠実さを求めるのもどうかと思うが――何より己の仕事に忠実で生真面目。その上聡明ときているから、良識ある悪魔たちは皆口を揃えて言うのだ。グザファン様にお仕えしたい、と。

 先日agitatorとのお喋りにうっかり夢中になってしまったが故に、ふいごを踏む足を止め地獄の竈の炎を絶やしかけた元同僚の姿を思い出して私は顔を顰めた。彼は今頃どうしているだろうか。
 私は元同僚ほど迂闊ものではなかったが、それでもagitatorという悪魔の特性を知る以上は懸念せずにはいられないのだ。恐ろしくお喋りで、他者を己のペースに引き込むことの上手いベリアル公の寵児。




「ああ、思い出した」

 agitatorは呟いて、顔を上げた。癖のある葡萄酒色の髪が、ふわりと跳ねる。

「夢とは何か。私は君にそう訊いたのだ」
 
「夢とは、何か?」

 agitatorはもう一度、歌うように問うた。
 小鳥の囀りよりも澄んだ、他者の胸の内へ深く深く浸透してゆくその声は、けれどどんな悪意すら可愛らしく思える程に邪悪である。
 ――自覚のない罪。
 ――当人の知らぬ、悪意。
 優しげで、時には人を想い憂いを含むその眼差し。けれどagitatorがagitatorである限り、その根底にあるのは人間というか弱き生き物を誘惑する悪魔としての本質に他ならない。

「夜に、見るものだ。眠った時に、脳が人に見せるものだ」

 agitatorがそういった味気ない、実に洒落っ気のない回答を求めているわけではないことを私は知っていた。勿論、彼の珍しく興醒めしたような顔を見るまでもなく判っていた。
 お喋りで邪悪な――けれど悪気など欠片も持ち合わせていないこの悪魔はあからさまな溜息を吐き出して、

「そういう意味ではないよ。これだからグザファン公に仕える悪魔というやつは。誰も彼も生真面目すぎて面白味に欠けるのが、いけない。他の大公らを見習いたまえ。例えばアスモデウス公であれば、〈それは愛だ〉と言い、マモン公であれば〈まだ見ぬこの地底に眠る財宝である〉と言ったろう。ベルフェゴール公であれば〈醒めぬ夢。己のみが存在する世界こそが、一番の夢に違いない〉そうして我が君、誰より放埒で美しいあのお方は〈快楽だ。それに尽きる〉と――」
「判った。もう良い」

 喋らせておけば、延々とagitatorの話は続いただろう。確かにagitatorの例え話は当を得ている。どれも各々の悪魔大公らが口にしそうな答えである。だから、だ。彼の言う通り、なのだ。
 そこに、もしグザファン様を付け加えたとするのならば彼も又「眠りについた人間が見るものである」という私と変わらぬ答えとなるに違いない。つまりはそういうことだ。我々はそういう風にできている。
 最初にagitator自身が言ったではないか。

〈これだからグザファン公に仕える悪魔というやつは。誰も彼も生真面目すぎて面白味に欠ける〉

 と。

「判っていて訊くとは、とんだ暇人もいたものだ」
「私は人ではなく悪魔だけれどね。ほら、君。ふいごを踏む足が止まっているよ。良いのか?うんと炎の勢いを強くして煉獄の山を登る罪人たちを思い切り苦しめてやるのが好きなんだろう?」
「語弊のある言い方は辞めてもらいたい。それではまるで我々が罪人を痛めつけることに楽しみを見いだしているかのようではないか」
「違うのか?」
「違うとも。そんな加虐趣味のある悪魔などここにはいないさ。皆、自分の仕事に誇りを持ってこなしているだけだ。まだ我らが憎き御父君に見放されてはいない人間が懺悔し贖う為の、場所だからな。煉獄は」

 むっとしながら言い返せば、agitatorは苦笑を零した。

「それはご苦労なことだ。本当に君たちの真面目さには涙が出るよ。上の連中はどの罪人が途中で煉獄の山を登り詰めることを断念するか、賭けをしていると聞くのに」

 知っているとも。
 この地獄という場所は、人間からは我々悪魔という種族にとって自由に振る舞うことのできる王国のような場所であると思われているようだが、あくまで我々は〈地に堕とされし者〉である。
 娯楽と言えば、他の悪魔との論争。地獄に堕とされた泥人形どもをからかうこと。地上へ出れば娯楽もあろうが、そこには自由は存在しない。少し羽目を外せば禁欲的でお高くとまった光の子らが飛んでくる。

「だからグザファン様も、賭け事は自由だと言っている。不正さえしなければ、の話だが」
「不正ねえ」

 ――実に悪魔らしくない会話だ。
 と、agitatorは翼を震わせて笑った。

「ところで、agitator」
「うん?何だい?」
「結局のところ、お前は暇を潰す為にここに居座っているわけだろう。ならば聞いてやる」

 ――夢とは何か。
 今更ではあるが、仕方がない。グザファン様が戻られるまでの辛抱であると、変わらずに足でふいごを踏みしめながら私はこの非常にお喋りで、けれど何故か憎むことのできない悪魔に問い返してやった。
 agitatorは一瞬だけ、私からそれを問われたことに驚いたように――彼の悪魔らしくもなく目をぱちぱちと瞬かせたが、やがて皮肉っぽく微笑んでこう言った。



「夢とはね、思わせぶりな虚構だよ。nonsense。まるで私と君の会話のようにね」





END