Unhappy April Fool's Day





 彼はにっこり笑うと和泉の腕を掴んだ。

「さあ、馬鹿げたニートを育てた馬鹿な芸術家のところへ行こう」
「ちょっと、どうして怒っているんですか」
「どうして俺が怒らないと思ったんだ、君は……」

 今度は頭を抱えている。難しい人だな、と和泉は思った。

「その、あなたが大変なのは多分いくらか俺のせいでもあると思うので助言しておきますけど、もう少し気楽に考えた方が生きるのは楽だと思いますよ」
「だから誰のせいで俺が無駄に生きづらい思いをしないといけないのか考えたことは――いや、やめておこう。こいつらみたいに常識から少し外れた価値観を持って生きているタイプってのは、どうして他人が常識にこだわるのか分かろうともしないものなんだ。そのことはもう千里と付き合っていたときに十二分に思い知らされたじゃないか、藤波透吾。俺が高校生だった頃にさえできたバイトを目の前のお坊ちゃんができないと言ったからって、罵るのは酷だぜ。だって、そうだろう。殻を割ったばかりの雛が飛べないのは当たり前のことだ」
「あの……それ全部独り言ですか? 頭大丈夫ですか? 病院、付き添います?」

 いろいろと失礼なことを言われているような気もするが、彼の長い、長すぎる独り言のことも気にかかった。やはり素直に母親を頼っておくべきだったかなと後悔しつつ、和泉は透吾の顔を覗き込んだ。目が合う。瞬間、彼が心なしか泣きそうにも見える顔で叫ぶ。

「嫌みだよ!!」
「いや、そんな顔で言われましても。育ってきた環境が違うせいなんだと思いますけど、どこからどこまでが嫌みか分からなかったので。すみません」
「君ってやつは……」

 そっか、国香くんくらいストレートじゃないと駄目なんだな。と透吾はまたしばらくぶつぶつ呟いていたが、やがてハッと顔を上げた。

「そうだ。石狩くんのところで世話になったらどうかな。経験がないとか決めつけてしまったけど、君らバイトしていたじゃないか」
「ええ、まあ、あのときは――でも、すぐに藤波さんたちが来て仕事の話そのものが流れたのでほとんどなにもしていませんけど。俺も遺品整理と聞いたから引き受けただけで、力仕事は国香さんに任せるつもりで行ったので、本来の仕事ができるとも思いませんし」

 透吾の頬がひくりと引きつる。それでもめげずに、彼は続けた。

「じゃあ、国香くんのアシスタントは? 彼女がいくらくらい稼いでいるかは知らないけど、雑誌なんかでもよく見かけるから君を雇うくらいの余裕はあるんじゃないかな。あわよくばそのまま同棲に持ち込んで、結婚して養ってもらうってのも手だぜ」
「ろくでもないこと言いますね。というか、俺にも選ぶ権利が――」
「ないよ! まともな職歴もなくてこれから働こうって気もない箱入りのお坊ちゃんに選ぶ権利が発生するとしたら、それは親が死んで手元に財産が転がり込んできたときだけだ!」
「そもそも財産があったら誰かに養ってもらおうだなんて思いませんよ」

 至極まっとうな意見を言ったつもりだったのだが、それを聞くと透吾は癇癪を起こした子供のように足を踏み鳴らした。「比良原くんでさえ、もう少し話が通じたのに」と、なにやら比べられているようで和泉は面白くない。

「では俺も言わせてもらいますけど、国香さんに雇ってくれなんて頼めるなら最初からあなたを頼っていないって少し考えたら分かりそうなものじゃないですか」
「君のその無遠慮さも、親しさゆえかな?」
「いえ、特に気を遣う理由も見つからないだけです」
「君のような人間に返しきれないほどの借りを作ってしまった俺が、大馬鹿なんだろうな」
「あ、借りだと思ってくれていたんですか。散々な言われようだったので、てっきりなにもなかったことにされてしまったのかと」
「借りだと思っていなかったら、こんな馬鹿げた会話に貴重な時間を費やしてどうしようもないことで悩んだりしないさ! なあ、高坂くん! 君は自分がどれだけ無茶な要求をしているのか分かっているのか? つまり、君はなにがあっても働きたくない。でもこのまま一人暮らしをはじめてしまうには将来的に心許ない。国香くんのヒモも嫌で、できれば母親にも頼りたくはない――万里の教育係をやっていた頃でさえ、そんな無理難題を押しつけられたことはなかった……多分、なかったと思う……」
「そう言われてしまうと、自分がろくでもない人間のように思えてきて複雑ですね」
「ろくでもないんだよ。少なくとも、俺に指摘される程度にはろくでなしだ……」

 もう叫ぶ気力もないのか、語尾は力なく消える。なんだかんだ言いつつ、根はお人好しなのだろう。或いは、それも透吾が抱える“生きた人への媚び”か。彼はまた思案顔でうんうんと唸っていたが、やがてぽつりと洩らした。

「これを言うのは、もう少し形が見えてきてからにしようと思ったんだけど――」

 なにか秘策でもあるのだろうか。急に真剣さを帯びた相手の眼差しにやや緊張しながら、和泉は訊き返した。

「なんでしょう?」
「その、なんて言ったらいいのかな。こんなふうに切り出すことになるとは思わなかったから、上手い言葉が見つからないんだ。ええと、君はさ」
「はい」
「俺に面倒を見られる気は、ない?」

 自信なさげに訊いてくる彼に、ぞわっと背筋が粟立った。

「それは、あの、永久就職的なあれですか」
「え? なんだってそんな嫌な言い方をするんだ。まあ、できれば次がなればいいなとは思っているけれど……」

 なにが嫌な言い方なのか。これも価値観の相違なのだろうか。彼の皮肉も冗句も分からない。まったく分からない。なんでこんなことになってしまったのかと、和泉は再び途方に暮れる羽目になった。

「いや、どうしてこのタイミングで」
「君がどうしようもない無茶ぶりをするから」
「その、俺は別に同性愛に偏見はありませんし、あなたのことも可哀想な人だとは思っていますし、できれば少しは親しい知人とか、友人とか、そんな感じで例の件の責任を取るつもりでもありましたけど、でも、人生を丸投げされてしまうと重すぎるというか、もし生涯の伴侶を得なければならない日が来るとしたら俺は女性の方が好ましいですし、てっきり藤波さんもそうなんだと――」
「どこから言い返せばいいのか、俺には分からないよ。でも一つだけ言わせてもらうなら……俺の一世一代のスカウトを台無しにしてくれてありがとう、高坂くん。まだ起業していないから千里のようにいかないことは分かっていたけれど、でもできればもう少し恰好良く決めさせてほしかったな」

 ぱたりとテーブルに突っ伏して、透吾は今度こそ本当に泣いているようだった。カフェに足を運んだときにはまだ昼にも差し掛かっていなかったが、そんなやり取りをしているうちにもう三時になろうとしている。なんとはなしに携帯を確認した和泉は、父親から一通のメールが届いていることに気付いた。昼過ぎには届いていたようだが――

 From:五樹さん
 Subject:ハッピーエイプリルフール!

 件名ですべてを察して、そっと携帯を閉じる。

「なにに傷付くって、その遠回しな拒絶にだよ。そういういかにも気を遣ってますってやつ。しかも可哀想な人だとか好き放題言ってくれて――俺のことを少しでも知った気になったやつってのは、大抵そう言うんだ。可哀想って。ああ、もう俺のことを哀れまないでくれよ!」

 今度は本当に病院が必要かもしれない。
 もう和泉の存在も忘れたふうに愚痴っている面倒な男に、父親の悪ふざけをどう種明かししたものかと考えながら、和泉はひとまず通りかかったウエイトレスを掴まえて遅めの昼食を注文したのだった。






END
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「貴族と死」のあと。
藤波のテンションが高い。