Unhappy April Fool's Day





 新生活の始まりを告げるには相応しい、四月一日。
 どうしてまた、そんな話になったのか。
 高坂和泉には分からなかった。ただ気付いたときには荷物一つで家を追い出されていた。つまりはそれも社会経験の一つなのだと、そんな父親の言葉を理解するのに三十分ほどを費やした。自分は彼の気紛れで、唐突に一人暮らしをする羽目になったのだと。それからさらに三十分、腕の中におさまってしまう量しかない荷物を抱えて、和泉はただただ途方に暮れていた。二十五年間、一人暮らしの経験などは一度もない。小遣い稼ぎしかできない息子のことを両親も少なからず許容していると信じて疑いはしなかったし、まさか事前通知もなしに――こんなふうに追い出されるなんて、それこそ夢にも思わなかったのだ。そうして一時間が経った頃、彼はようやく認めた。
 働きたくない。けれど、どうにかして親元を離れ生活していく算段を付けなければならない。
 そう思い至ったとき、頼れそうな知人の顔はいくつか浮かんだ。知人。今は友人と呼ばせてもらおう。頑なに知っているだけの他人であると主張し続けてきた彼らのことを、まさか自分から頭を下げて友人と呼ばねばならない日がくるとは。自らの不幸を嘆きつつ、すぐに携帯を取り出す。少しの迷いもなく一つの番号を呼び出してかければ――おそらく暇を持て余していたであろう――相手はすぐに応じてくれたのだった。


 ***


「で? 途方に暮れて俺を頼ってきた? 母親でもなく、国香くんでもなく、比良原くんでもなく俺? よりにもよって? 信じられないな」

 と、男――藤波透吾は例の調子でまくし立てた。日頃から台詞回しに大仰なところのある彼ではあるが、今回は本当に驚いているのだろう。大きく開いた目には、いくらかの困惑も表れている。

「だって、高坂くん。君は俺のことが嫌いだろう?」
「嫌いというか、苦手なだけですけど」

 和泉が訂正すると、透吾は嬉しくもなさそうに肩を竦めた。

「そりゃどうも。控えめに申告してくれて、嬉しいものだね」

 こんなときに限って、いつもの愛想笑いすら浮かべてはくれない。先日の殊勝さはどこへやってしまったのか――割り切るにしてもいささか早すぎはしないかと、和泉も少しだけむくれた。とはいえ、和泉がどれだけ機嫌を損ねてみせたところで口では彼に敵いそうになかったが。相も変わらず饒舌な男は、わざとらしく手を叩いて皮肉混じりに続ける。

「ああ、分かった。そうだな。苦手だからこそ、体面を取り繕う必要がないわけか。たとえば君がまるっきり物知らずの箱入り息子だったとして、俺にどれだけ失望されようが痛くも痒くもないと。国香くんの親切に甘えるより、彼女に失態を見せたくはないと」

 随分と自虐的な解釈である。しかし、あながち間違いとも言えない。というのは、彼の言葉にほんの少しの後ろめたさを覚えてしまったことを認めないわけにはいかないからだった。そのつもりはなかったが、無意識のうちにそういう相手を選んだと言われれば否定できないところではある。
 彼はなにが気に入らないのか、珍しく憤慨したように続けてくる。

「いや、俺に悪いところがなかったとは言わないよ。君らには嫌なことも言ったし、酷いこともした。それは認める。ちょっとした認識だとか信念の違いだとか、そういった言葉で逃げるつもりもない。価値観を一方的に押しつけて……国香君の言葉を借りるなら、言葉の力で君らを押さえつけようとしたわけだ。我ながら横暴だったと思う。後悔はしていないけれど、反省はしている」
「あ、いや。俺が悪かったです。藤波さん」

 先日の貸しの件やらなにやら含めて、透吾なら快く相談に乗ってくれるのではないかと期待していたのだが。ひたすら続きそうな愚痴に付き合うのも面倒になって、和泉は顔の前で手を振った。けれど彼がそれで話を終わらせてくれるということもなく、憮然とした顔でこう言い返してきた。

「相談に乗らないとは言ってない。ただ、さ」
「ただ?」
「君、自覚しているかい? 酷い顔だ。俺を頼るのが嫌で仕方ないって感じだよ」

 つまり、彼が憤慨している理由というのはそういうことだった。


 ***


「ふうん。今までなにも言わず好きなことをさせてくれたってのに、ある日突然放逐か。芸術家ってやつは、やっぱり理解しがたいものだな。俺でさえ、そんな酷いことはしないってのに」

 こちらの事情を洗いざらい話してしまうと、透吾は肩を震わせた。悪いね、と断りをいれつつも遠慮のない彼はすっかり機嫌を直したように見える。ともあれ、そうして笑っていたところでなんの解決にもならないことには気付いたのだろう。すぐに笑みを引っ込めると――そこが、彼の信用ならないところだ。本心から面白がっていたのか、面白がるふりをしていたのか、どうにも分かりにくい――突然、こう切り出してきた。

「君、貯金はある?」
「ええ、まあ。当面困らない程度にはあると思いますけど、定職に就いているわけでもないので十分と言えるかは怪しい感じです」
「ああ、趣味で小遣い稼ぎをしていると言っていたな。まったくいいご身分だ」
「そんなにいじめなくてもいいじゃないですか」
「俺、親しい相手には少し無遠慮になるようなんだ」
「はあ。もうどこから指摘すればいいのか分からないので、なにも言いませんけれども」

 親しくした覚えもないし、以前から無遠慮だったような気がしなくもないが、それを言えばまたへそを曲げてしまいそうなので口を噤んでおく。以前とは違う意味で面倒な人になってしまったと、和泉はしみじみ溜息を零した。

「で? 俺はどうすればいいんですかね。その、あなたの親しみゆえの無遠慮さに耐えて問題が解決するって言うのなら聞き流す努力もしますけども、そうしたところであなたが養ってくれるわけでもないんでしょう?」
「……俺は今、君のニート根性に驚いている」
「藤波さんのその性格と同じですよ。治そうにも、今更どうすればいいのやら」
「就職先を探すって選択肢はないのかい?」
「俺になにができると思います? 接客も営業も力仕事も単純作業も無理ですし、コネを使えばどこかの美術館か博物館には潜り込めるかもしれませんけど、そもそも社会経験が必要だなんて言い出したのはそのコネを持った父で――」
「よし、君の家に行こう。まるっきり物知らずで我侭なニートを生産してしまった親にも責任の一端はあると思うんだ。俺が一日かけて、君の父親に製造責任を問うてやる」