始まりの話





 敬愛する我が主人にて、偉大なる地獄の大公様。聡明で美しい、炎の戦車に乗るお方。
 今宵はどのような話を致しましょうか。
 彼のマルティン・ルターが九十五ヵ条の論題を書いた際に、カイムがルターと論争をするその横で私が一晩中暖炉に薪をくべてやった話――
 それとも彼の地セイラムで起きた忌まわしき事件の話――
 黒の病が泥人形にもたらした絶望と混沌の記憶でも良いですし、ブラッディ・メアリーの話でも良いでしょう。ああ、悪魔を呼び出し八つ裂きにされた哀れな博士の話もありました。

「いいや、agitator。今宵はジャネットの名を持つ二人の乙女について語ってもらうとしようか」

 ジャネット?
 ああ、Jeanne、Janet。そのような娘も確かに居りました。片や戦場に咲く一輪の白薔薇の如き気高い乙女、片や野に咲く白菊のように可憐な少女。二人の乙女が私のことを「fee」とその名で呼んだのは今は遠き昔の話に御座います。
 イングランドとフランスが引き起こしたあの複雑で激しく、そして私欲と謀略に満ちた戦の最中に我らが、いえ我が信愛なる大公様や氷結地獄の最下層にて未だ腰ほどまで氷に浸かった我らが貴き王の、忌々しき御兄弟――光り輝く翼を持った、第四天の支配者にして熾天使であるミカエル卿がドンレミの村で十三歳の少女に信託を下したその瞬間、ラ・ピュセルの呼び名を持つ彼の乙女が誕生したのでした。

「ああ。覚えているとも。あの日、天は目が眩むほどに高く晴れていた。白々とした太陽の光がまるで全てに息を吹き込み、慈悲を与えんが如くに降り注ぐ、実に不快な日であった。その光は僅かながらもこの地底にすら到達し、コキュートスの最下層で我らの王が皮肉気に呟いたのを覚えている。〈ああ、また光り輝く者に惑わされし愚かで哀れな泥人形が一つ〉と」

 はい。大公様の仰る通り。
 あの日私はいつものようにキャベツ畑において勤めに励んでいたのですが、あまりの眩しさと不快さに眩暈を起こした程でした。あのカイム――弁舌巧みな我が友が鶫の姿で飛んできてくれねばか弱き私はキャベツの上で息絶えていたかもしれません。実に不幸なことながら――私はあの時ドンレミの村から近いキャベツ畑で暇を持て余していた黒猫と話をしていたのです。
 あ、いえ。決して課された任を怠っていたというわけでは御座いません。
 ――え? お前が怠けていたかそうでないかはどうでもいいから先を続けろ?
 これは申し訳ございません。カイムに救われた私はその後一旦この地底へと戻り、アスタロト公の宮殿にてひと月ほど、公の配下である悪魔らとの弁論を楽しんだものでした。
 あっ、あだっ!
 何をなさるのです、ベリアル様。悪徳の為の悪徳を愛する美しい方!
 いくら貴方様が欺くことを至上の喜びとされるからとはいえ、ひ弱で取るに足らない善良な配下である私のことも欺くが如く無言で唐突に剣の鞘で殴りつけることも無いでしょう。ああ、私のか弱き肌はこんなにも赤黒く――

「黙れ、agitator。私の記憶違いでなければ、お前の肌はお前が遥か昔六の月にお前の母から生まれ落ちたその瞬間から現在に至るまでずっとその色であったろう。私は乙女の話をせよと言ったのであって、お前の無益なお喋りの記憶を聞きたい訳ではないのだ。まったくお前ときたら――。あのカイムも呆れるほどの詭弁家ではあるが、この地獄のどこを探してもお前ほど無駄に言葉を垂れ流す悪魔などおるまい。お前のそのお喋りの所為で私がアスモデウスやマモンらにどれほど責められるか、お前は知らないだろう。お前が彼らの宮殿へ行って、その部下たちに話しかける度に下級悪魔らの手は止まり、政務に支障をきたすと言うではないか」

 なんたる誤解! 酷い濡れ衣に御座います。ああ、麗しき大公様。私はただ日々忙しく潤いのない日々を送る彼らの気を少しでも紛らわせてやろうという親切心から私の知る愚かで愛おしくそして哀れな泥人形の話をしてやっているに過ぎないのです。あとはこの地底における噂話をほんの少し。

「そのほんの少しがあてにならぬのだ。そう言って一週間は喋っていったと先日もグザファンのところの悪魔が私に泣きついてきたのだ。“ベリアル公!agitatorの首に縄をつけ、いつでもその先を握っていてくださいませ!でなければ地獄の竃の火が絶える日もそう遠くはないことでしょう”とな」


 地獄の大公は皮肉気にその薄く血色の悪い唇の端を歪めるとすらりと伸びた指先で己が配下であるこのお喋りな悪魔の小さな額を軽く弾いた。幼子が持つ人形ほどしか背丈のない扇動家の名を持つ悪魔は容易く弾き飛んで大理石で造られた床へびたん、と音を立てて張り付く。その小さいながらも立派な黒色の翼が、ひくひくと痙攣しているのを目にしてくつくつと喉を鳴らす美麗なる主君に、お喋りな悪魔は床からのそりと上げた顔――恨めしげな眸を向けて「肝に銘じておきましょう」と苦々しげに呟いた。


 とは言え、私はただ大公様に無駄な話をお聞かせしていたわけではありません。私があの日のことをそれ以外語れぬ理由を話しておく必要があったのです。忌々しき大天使の気に中てられてしばし地底にての静養を必要とすることになった私が、実際に彼の聖女と出会うことになったのは、それから四年後。彼のシャルル七世がランスにて戴冠式を終えた後のことになります。

 では、四年もの間、彼の聖女に全く興味を抱くことのなかった私が何故唐突に彼女に会いに行こうと思い立ったのかといいますと、これまた親友のカイムから興味深い話を耳にした為でした。



 当時フランスはイングランドの猛攻に砦を次々と落とされ、オルレアンの町などは完全にロワール河の南側から切り離されてしまったという有様でした。オルレアンの私生児(バタール)、あのアザンクールの戦いで捕虜となったオルレアン公の異母弟であるジャンが、鰊を大量に積んだイングランド軍の輸送部隊を襲撃し、逆に惨敗を喫したという不名誉な戦は私の記憶にも残っております。何故なら、やはり鶫の姿をしていることの多いカイムが嬉々として、あの戦での収穫を語った為なのです。
 それまでイングランドとフランスの戦などには全く興味の無かった私も――と、いうのは、後にイングランドとフランスの長く激しい戦いが百年戦争と呼ばれるように、飽きることなく続けられる不毛な戦に見ているこちらが飽きてきた為でもありました。全く進展の見られない演劇を見せられて欠伸を噛み殺さねばならない観客という立場が、実のところ私にとっては一番憎むべき役なのです。折しもその頃は丁度此処、地の底にてアスモデウス公とベルフェゴール公の論争が話題になっておりましたから、そちらへ参加した方が遙かに有意義であると地上の動向になど気に留めてもおりませんでした。

「ああ、そういえばアスモデウスとベルフェゴールがそのような争いを起こしたこともあった。懐かしい話だ。全くあ奴らときたら普段から決して仲が良いとは言えぬものの、互いの主張を相手に認めさせんと躍起になるものだからいけない。ベルフェゴールなどは怠惰な奴にしては己の論の正しさを確認する為に地上にまで出かけていったのであったな」

 地獄の大公は小さな己の配下の言葉に、当時を思い出したように瞳をどこか遠くへと向けて深く嘆息した。長い睫毛が白皙の頬に影を落とす。憂いを帯びた表情は、この世の誰より美しく、見る者に感嘆の吐息を零させる程である。麗しき炎の戦車を操る悪魔は、虚無を紡ぐその薄い唇から艶めかしい赤き舌を覗かせながら、「結局あの論争には決着が付かずに私が二人の間に入る羽目になったのだ」と再度溜息を吐きだした。

「あの二人を宥めることは、私の弁術を持ってしても難しい。ベルゼブブなどは言ったものだ。“あの二人を諌めることができるのは、我らが王のみであるが、あの二人を丸め込むことができるのは広き地底を探してもお前以外には居るまいよ、ベリアル”と」

 そのようにベリアル様をあの御二方へけしかけることができるのも、ベルゼブブ公しかおりますまいいいだだだだ、何をなさるのです我が主! 多情にして優雅で放埓な君!
 私はただほんの少しベルゼブブ公の御慧眼を讃えたに過ぎませんのに!
 え? 何? お前のその物言いでは私がまるでベルゼブブの言葉に踊らされたようではないか、と? 何を仰います、ベリアル様。私はそのような不敬を申し上げたつもりなど御座いません。
 ――もう良いから続きを話せ?
 これはこれは、申し訳御座いません。
 そうです。地上の動向など気にも留めていなかった私に、カイムがその鰊の話ともう一つ、百合と天使の描かれた純白の旗を掲げさせて白馬に跨る勇ましき乙女を見たのだと語ったのでした。
 その乙女を、追い詰められたオルレアンの民が松明を掲げ出迎える様は異様であったといいます。たかが一人の乙女、力無く見える華奢な乙女、無謀なその乙女を見る民衆の目つきはまるで降臨する神の御使いを目の前にしたようなものであった、とカイムは実に面白げでありました。
 ――agitator、滑稽じゃないか。実に滑稽だ。相手はまだ十七の小娘だ。ミカエル卿が一枚噛んでいるらしいが、俺には生贄に捧げられた祭壇の上の子羊にしか見えないぜ。ああ、哀れだ。
 そう言ってキキキっと鶫の鳴き声にも似た声でしばらく笑っていたのを覚えております。

 カイムから乙女の話を聞いた私は、そこでようやく四年前に己が遭った災難を思い出したのでした。即ち、ドンレミの村にミカエル卿が現れたあの不快な日のことを。私が大天使の気に中てられ養生をせねばならなくなった日のことを。