はじまりの誕生日







 新しいことを始めるなら、そう。
 生まれた日がいい。

 ブルーのストライプ柄が入ったシャツに袖を通して、男は上機嫌に微笑んだ。鏡の中には女好きのする色男――と口の中で呟きながら、やや自信過剰かと微笑が苦笑に変わる。とはいえ実際、彼は彼自身が自負するとおりの男だった。
 艶のある眼差しに、すっと通った鼻筋。薄い唇はいつでも軽く微笑んで見える。恵まれた長身に、優雅に伸びた手足、指の先まで形がいいことを本人も勿論意識しているためか仕草のいくらかは気障っぽい。額にかかったやや長めの前髪を勿体ぶって掻き上げると、彼――藤波透吾はネクタイを結んだ。最後にグレーのスーツを羽織って、やっぱりこの色が一番似合うなと自画自賛しつつ軽く髪を整える。

「まあ、こんなものかな。あまりキめすぎてしまっても寒いし」

 鏡越しに時計を見れば、午後の二時を回ったところだった。家を出るには丁度いい時間だ。なにからなにまで思い通り――その感覚も久しぶりだとしみじみ思う。

「実にいい日だ。彼にとっても、同じくらいいい日になるといいんだけどね」


 ***


 黒い革の手袋は、常に白手袋をはめている彼に倣ってみた――というわけではない。
 意識して動かせば、まだ皮の突っ張るような感覚が残っている。その火傷痕が目に触れるたび思い出さずにはいられない。遺品蒐集家の青年に、過去の一端を突き付けられた日。今となっては忘れたなどとしらばっくれるつもりもないし、その傷跡を見てあの日を連想する人というのも片手で数えるほどしかいないが。それでも、なんとなく人目に触れさせようとは思えないのだった。
(それに、女性受けは悪そうだからな)
 難ありと評されることの多い性格はさておき、目に見える部分だけなら完璧を装うことはできるし、そうしておくに越したことはない。いや、訳ありを装って同情を引くのも手か――?
 いつもの癖でつい打算的に考えてしまって、かぶりを振る。
(そうじゃないだろ、藤波透吾。今日だけは誠実にやろうって決めたじゃないか)
 誠実に。そう、誠実に。
(我ながら、奇妙なものだとは思うけどな)
 なにが変わったのかといえば、なにもかもが変わったとしか言いようがない。或いは、一つ歳を取ったというただそれだけのことかもしれない。変わったつもりでいて、所詮はいつもの自分でしかない――という可能性も、まあ有り得ないことではない。
(だとしてもさ、期待してしまうんだよ。次の出会いで俺の中のなにかが突然変わって、なにもかもがいい方向に向かうんじゃないかって。いつもの俺なら馬鹿らしいって笑い飛ばすところだったとしても、今日くらいはね)
 鼻歌交じりに、ちらりとショーウィンドウを眺める。ぴかぴかに磨かれたガラスには、やはり上機嫌な男の顔が映っている。目が合った女性店員ににこりと微笑みかけつつ、彼はまた駅へ向かって歩き出した。都心から下り電車で、およそ四十分。一人で過ごすその時間が存外寂しいものなのだと、気付いたのはつい最近のことだ。いつでも傍らにあった小さな影。落ち着いていることもなければ口を噤んでいることもほとんどなかった少女との日々をなんとはなしに思い返していると、いつの間にか降車駅に着いていた。入ってくる人の波を掻き分けながら、外に出る。
 ――陽射しが眩しい。
 一度だけ目を細めて、鞄の中から取り出した地図を確認する。目的地は少し遠い。タクシーを拾おうか迷って、結局歩いていくことにした。いつもとは違う日だ。いつものように、あたりの景色に目を配っていくのも悪くはない。

 そうして歩くこと二十分。
 閑静な住宅街に響く話し声に、透吾は足を止めた。同じような形の家が並んだ迷路のような区画で周囲を見回し、不意に気付いて、少し道を戻る。手前にあった路地の奥を覗き込むと――当たりだ。玄関先で若い女と青年がなにやら言い合っている。「ですから俺は蒐集家で」「これから人と会う約束があるのでお引き取りください」「遺品を処分される前に、話だけでも……!」「もう、しつこい!」――どうやらとりつく島もないようだ。
(やれやれ。彼も相変わらずだな)
 死者の想いを代弁するとなると途端雄弁になるくせに、一般人との交渉は苦手らしい彼を見て小さく笑う。とはいえずっと眺めているのも悪趣味かと、透吾は軽く咳払いしてみせた。会話が止んで、二人分の視線が集まる。目が合うと、女は不機嫌そうな顔をぱっと取り繕ってみせた。そうして彼は――

「なっ……」

 驚愕に引き攣る青年の顔を見て、透吾は唇の端を歪めた。

「どうも、お取り込み中のところ失礼」

 これは流石に嫌味すぎるかと思いつつ、女に向かって恭しく一礼する。

「遺品整理代行サービス、F&Kの藤波透吾と申します。このたびはご連絡いただき誠にありがとうございました。うちの助手が不躾にすみません。彼、社会経験が少ないもので。高坂くん、俺はご挨拶を済ませてしまうから少し待っていてくれないかな」




「あの、どういうことですか! 藤波さん!」

 まあ、それが普通の反応だろう。
 ――一時間後。
 初仕事の打ち合わせを終えて、彼らは駅前まで戻ってきていた。適当なカフェで腰を落ち着けて、飲み物を注文した後――高坂和泉の第一声が、それである。

「なんであなたが、あのお宅に?」

 それももっともな疑問ではあった。
 彼自身は恐らく、というか確実に件の家に眠る〈死者の行進〉――比良原貴士の曾祖父、比良原倫行が手がけた作品群だ。擬人化した〈死〉を描いた、透吾に言わせてみれば悪趣味な代物である――を手に入れるため、あの場にいたのだろうが。
 いまだ混乱しているらしい彼に微笑みを返しつつ、透吾は訊ねた。

「君、あの家に〈死者の行進〉があることを誰から聞いた?」

 疑問を疑問で返されて、青年の顔に困惑が浮かぶ。

「え? それは……国香さん経由で、貴士くんから」
「うん。じゃあ比良原くんにその情報をリークしたの、誰だと思う?」

 そう、今回ばかりは、これまでの悪縁、偶然、腐れ縁、の類とは違う。

「まさか」

 絶句する和泉に、透吾はあっさり頷いてみせた。

「そ、俺。比良原くんに協力してもらってね」

 と、簡単に言ってはみたものの、比良原貴士と連絡を取り合うのは実をいえば少しだけ苦労した。初めのうちは電話にすら出てもらえなかった、というのは以前のやり取りが貴士にとってトラウマになっていたためか。着信拒否にされなかったことだけが、幸いだった。
 彼の許へ直接赴いて直談判という選択がなかったわけではないが、高坂巴のマンションにしろ、唐草蛍の家にしろ、大男の便利屋にしろ――透吾にとって顔の出しづらい場所ばかりである。留守番電話に延々と用件を吹き込み続けてようやく、もう勘弁してくれと――脅したつもりはまったく、これっぽっちもなかったので心外だったが――泣きの入った貴士が電話に応じたのだった。

「客の中に〈死者の行進〉を所有している人がいたのは幸運だったけれど、彼に君の動向を聞きながら密かに予定を擦り合わせるのは大変だったんだぜ」

 結果、今日という日に落ち着いたというのはなんとも運命的な話ではないか。
 しみじみ感慨に耽る透吾とは逆に、和泉は顔をしかめきっている。

「というか、なんで遺品整理代行サービスなんですか。前の件で懲りたんじゃ……」
「勿論、懲りたさ」

 いや、そういう言い方は適当ではないか。かぶりを振りながら、言い直す。

「考えさせられた、と言うべきだな」
「考えた結果のそれって、わけが分からないんですけど」
「ああ、そりゃあまだなにも説明していないから。俺は別に、以前と同じ信念に則って遺品整理をやろうってんじゃないんだよ。流石にそこまで意固地じゃない」

 言葉に、和泉が微妙そうな顔をしたことには気付かなかったふりをして続ける。

「むしろ、その逆さ」
「逆?」

 首を傾げる彼に、透吾は大きく頷いた。和泉の方へ分厚いファイルを寄せる。
 彼はそれに触ろうともせずに、胡乱げな瞳を向けてきた。――どうやら警戒されているらしい。

「なんですか、これ」
「起業するのに必要だった書類とか、資料とか。君も見ておいた方がいいだろ?」
「どうして」
「だって――君さ、F&Kって、なんの略だと思ってるわけ?」
「え、えふ」

 困惑しきった和泉が呟きながら指さしてくる。透吾は頷いた。

「そう。俺、藤波のF。じゃ、Kは」
「自意識過剰であってほしいと思いますけど、ええと、高坂の…………?」
「はい、当たり」

 瞬間、和泉はうわぁと呻いて頭を抱えた。
 いくらか予想していたとはいえ、あんまりといえばあんまりな反応ではある。

「そんなに嫌かな。俺と組むのは」
「嫌、というか。なんというか、あなたにしては捻りのないネーミングセンスで、驚いたというのもありますし、こう、俺もいろいろと混乱していて――」
「まあ、確かに捻りはないけど。でも、俺にとっては大事なことだ」

 ファイルの表紙に印字されたイニシャルを指でなぞって、透吾はそっと呟いた。

「この会社は千里と美千留さんのものじゃない。いつでも辞められるなんて驕れない。けれど俺だけのものでもない。俺の好き勝手にはできない。そういう不自由さと、誰かと共有しているって自覚が俺には必要だったのさ。俺はすぐに、一人で上手くやっているような気になってしまうから」

 驚愕しているらしい和泉の視線が、どうにも気恥ずかしい。

「らしくないとは分かっているんだ。でも、らしくないことをすべきだと思った」
「……もし俺が断ったら、どうするつもりだったんですか」

 躊躇いがちに、彼が訊ねてくる。
(断ったら、どうするつもりだったのか――ね。まるで了承したような言い方だ)
 相変わらずのお人好しだ。透吾は苦笑しながら、言った。

「さて、ね。俺との悪縁をなかったことにしないと言ってくれた君だ。きっと面倒を見てくれるんだろうと思っていたし……そうだな。蛍さんに頭を下げて、例のあれ。〈貴族と死〉を譲ってもらって交渉材料にしようかと、それくらいは考えたかな」
「そうまでして、あなたが俺と組みたがる理由が分からないんですけど」
「俺が始める遺品整理代行っていうのは、さっきも言ったとおり遺品を処分するだけのサービスとは違ってね。ほら、ここ――」

 ファイルをめくって、最初のページ書かれた文字を指で叩く。

「えっと……故人の想い、代弁します?」

 読み上げて、和泉がハッと顔を上げた。

「これって」
「そ」

 まじまじと凝視してくる彼から、ふいと顔を背ける。

「俺が理解することを拒み続けていたものだ。故人の想いを君が観て、それを俺がいかにも遺品の状態から推測したようにでっち上げる。というと聞こえが悪いが、いかんせん故人の想いを観るなんて現実的じゃないからな」

 今日だけは誠実に――とは決めていたものの、とうとう茶化してしまった。どうにも決まりが悪くてたまらない。そんな透吾の内心を知ってか知らずか、和泉は苦笑すらしてくれなかった。代わりに、酷く無遠慮にそれを指摘してくる。

「荒療治すぎませんか?」

 誰にとって荒療治なのか、彼はそこまで言葉にしなかったが。
 じっと視線を注がれては顔を背けているわけにもいかずに、透吾は溜息を零しつつ胸の前で両手を挙げた。和泉と再び、視線を合わせる。

「人の価値観ってやつは心を折るつもりでやらないと変わらない。いつもの俺のやり方だよ。ずっとそうしてきたんだから自分ばかり例外ってわけにはいかないだろう?」
「変なところで律儀なんですね。藤波さんらしいと言えば、らしいですけど」

 答えると、和泉はようやく苦笑いらしきものを浮かべた。

「確かに、俺にとっても悪い話ではないです。あなたが面倒な人だという点を除けば、自分の得意分野で社会経験を積むことができる」

 本心からそう思った、というよりは妥協するための理由が必要だったのかもしれない。まるで自分に言い聞かせるようにそう言ってみせた彼に、透吾は思わず呟いた。

「社会経験って、二十五にもなって今更って感じはするけど」
「……やっぱり、この話はなかったことに」
「悪かった。冗談だって。俺は君から死者を想うことの意味を学ぶ。君は俺から社会人らしさを学ぶ。それでいこうじゃないか。win-winってやつだ」
「はあ……」

 呆れているのか、和泉がこれ見よがしに溜息を吐く。

「なんか上手く丸め込まれたような気がしなくもないんですけど」

 それから彼は躊躇いがちに、すっと右手を差し出して――
(ああ、まったく。ここでそうくるか)
 目の前に自分という人間を突き付けられた日のことを思い出して笑うこともできずに、透吾は差し出された手をまじまじと見つめた。あの日の握手は別れのためのものだった。
 けれど、今は?

「こういうとき、一般的には握手から始めるものなんでしょう?」

 やや自信なげに彼が言う。

「ああ。多分、そういうものなんだろうね」

 嬉しいのか、癪なのか。
 よく分からないままにやっとのことで答えて、透吾は差し出された手にそっと掌を合わせた。



END

以前から書きたいと言っていた「貴族と死」その後の話です。
機を逃しているうちに藤波の誕生日まで引っ張ってしまったのでした。
一応序章ということになるので、時間を作って更新していきたいなと思いつつ思いつつ。