重厚な鉄扉が、まるで板切れのように蹴破られる。冷えた外気を連れてやってきたのは、聞き慣れた声だった。

「ヒーローは遅れてやってくる。だろ、八雲?」

 どことなく乱暴なところがある彼の声は、それでもいつだって八雲の胸をあたたかいもので満たしてくれるのだ。

「千晴くん! ナイスタイミング!」
「もう数秒遅ければ、私が手を出していたところですよ」

 時雨が苦笑してみせたのは大人の体裁だろう。彼こそ、山吹を信じて一ミリも疑わなかったに違いないのだから。
 山吹は悪びれもせず、尖った歯を軋らせて笑った。

「わりーわりー。折れるもんは折ってからぶっ潰した方が気持ちいいだろ。特に悪いヤツの大事なモノは全部」
「は――」

 すっかり蚊帳の外だった支配人が、いまだに事態を呑み込めずただ一歩だけあとずさった。それで終わりだった。

「おい、逃げんな。しまらねぇだろーが」

 無慈悲な一言とともに大きく一歩を踏み出し、支配人の顔面に拳を叩きこむ。

「が……っ!?」

 神に祈る時間さえ与えられなかった男はさらに数歩後ろへよろめいて、背後のパイプに打ち付けられる形で止まった。その姿はあたかも磔刑にされた聖人じみて、皮肉ではある。男の手からレンチが零れ落ち、虚しく音を響かせていた。

「ったく、大層な御託を並べたわりにはこんなもんかよ」

 気を失った支配人には目もくれず、山吹は毒づいている。そんな彼の悪態に八雲の緊張も霧散して、

「あ」

 膝から力が抜けた。
 体がすとんと垂直に落ちていくのを止められない。
(あー……せっかく百点満点だと思ったのにな)
 最後の最後で強気になりきれない。そんな自分の不甲斐なさに失望しながら、八雲は歯を食いしばった。恰好悪いなりにせめて痛みに耐えて、笑いで誤魔化せたらいいと――
 そう思ったのだが。
 痛みはいつまで待ってもやってこない。

「なにやってんだよ、八雲」

 すぐ真上に、山吹の顔があった。呆れたような声色とは裏腹に、見下ろしてくる瞳は酷く優しい。安堵に泣きたくなってしまうほど。

「……ハッタリにしちゃあ上出来だ。相棒もビビらせて、悪趣味にも一矢報いたろ。それだけで百点だよ、オマエ」
「悪趣味とは人聞きが悪い。私は信じていたんですよ」

 ――蛇尾君のこともね。
 肩を竦める時雨に「どーだか」と笑って、山吹はそのまま八雲を担ぎ上げた。入れ違いになるようにバタバタと走ってくる沼津署の刑事たちに後のことを頼んで、歩き出す――そんな彼の肩の上で、八雲は呻いた。声が震える。

「あの、あのね、千晴くん。わたし、こんな予定じゃ」
「最初から完璧を望むなよ。お子様が傲慢だぞ」

 あやす手つきで背中をぽんと叩かれて、それ以上なにも言えなくなってしまう。

「うん。ありがとう」

 迷った末、ただそれだけを呟いた。山吹の肩に担がれたまま、しばらく無言でそこからの景色を眺める――薄暗い機械室を出ると、外はもう日が沈んで暗くなり始めていた。
 薄群青の空に、爪痕のような白く細い月が浮かんでいる。太陽が海の向こうに沈んでしまえば、もう激しい夕暮れの名残もない。あとは穏やかな夜が訪れるのみだ。

「ねえ、千晴くん」

 ふたたび彼の名前を呼ぶ。彼の短い声が、それに応える。

「ん?」
「今度は温泉、わたしも一緒がいい。足湯とかさ」
「そうだな。どうせここにはもう泊まれねえし、足湯のある宿探してやるよ。頑張った名探偵サマにご褒美だ」

 ――なあ、相棒。
 振り返る山吹につられて背後に視線を投じると、後からついてきていた時雨が片手でオーケーのサインを出した。
 その仕草に、ふたり顔を見合わせて笑う。
 夜の気配を含んだ冷たい風が火照った頬に心地よかった。







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