「おや。危ないですよ」

 衝突寸前の八雲を抱きとめ、たしなめる声があった。

「あ、時雨さん!」

 相手の腰辺りにしがみついたまま名前を呼んで、八雲は胸をなで下ろした。山吹の相棒、時雨賢人である。こんな状況でももうひと風呂浴びていたのか、浴衣姿でいかにも満喫している様子だった。

「化物にでも追いかけられているような顔ですね」
「あはは、まあ……似たようなものかな」

 ぎこちなく笑って背後をちらと振り返る。支配人の姿はない。そんな八雲の様子を見ると、時雨は愉快そうに喉を鳴らした。眼鏡の奥の目が、三日月のように細くなる。

「さて、話を聞きましょうか。名探偵には聞き役が必要だ」
「うん」

 ひとつ頷き、八雲は表情を引き締めた。

「まず、若旦那さんの件は殺人で間違いないと思う」
「ほう?」

 相槌を打ちながら、時雨が片方の眉を跳ね上げた。

「どうしてそう思うんですか?」
「湯の花だよ。千晴くんが教えてくれたんだけど、あれは高温でできるものなんだって。お湯の温度が安定してると残らない。わたしが温泉に入ったとき、湯の花がたくさん浮いてたんだ」

 温泉の様子を思い出しながら告げる。

「お湯も確かに熱めだったし、湯気は怖いくらい多かった。だからロビーで成分分析表を見てきたの。もしかしたら、源泉はもっと熱いんじゃないかと思って……」

 時雨の表情は変わらない。なにを考えているのかも、よく分からない――それでも不思議と安心感はあった。

「で、どうでした?」

 訊ねてくる彼に、八雲は背筋を伸ばしながら答えた。

「源泉温度は九十度。つまり、源泉をそのまま流し込めば今回の殺人は成立する……というか、わたしはこれが殺害方法だと思ってる。ただ、分からないこともあって」
「なんです?」
「わたしが入ったときにはもう、人が入れる程度に温度が下がってたじゃない? 短時間で、しかも人に見られずにお湯の温度を操作する方法はあるのかなって。若旦那さんは湯温管理のシステム化をしようとしてたらしいけど、そこに手を付ける前に殺されちゃったみたいだし……」

 そう。それだけが分からなかった。
 回答の半ばで行き詰ってしまった悔しさで、唇を噛む。一方の時雨は、そこでようやくその顔に笑みらしきものを浮かべてみせた。

「ああ、なるほど。逆ですね」
「逆?」
「考え方が逆なんですよ。君のね」

 きょとんとする八雲に、彼は微笑んだまま続けてくる。

「悩める名探偵にひとつ助言を。ついてきてください」

 言うが早いか、もう歩き出している。八雲も慌てて後を追う。客室を通り過ぎ廊下を奥へ奥へ――
(この先は……従業員室とか、かな)
 雰囲気からそれを察して、ちらと時雨を見上げる。彼は八雲を見ようとしなかったが、懸念は感じ取ったのだろう。視線を前に向けたまま「大丈夫ですよ」と言った。

「旅館の従業員たちなら、狛江君が事情聴取の名目で呼び出していますから。警察の意に反するほどの特別な理由がない限り、ここに来る人物はいない……というわけです」

 一枚の鉄扉の前で足を止める。
 そこは外からの光が差し込まない場所だった。だからといって掃き清められていないわけでもない。むしろ神経質なほど人の手が加えられているようにも感じられた。磨き上げられた扉には赤い文字で書きつけられた「立入禁止」の札が掛けられている。何人をも拒むその文字を、けれど時雨はあっさり無視して扉を開け放った。
 蝶番には丁寧に油が差されているのだろう。見た目の重々しさとは裏腹に、開閉音すらない。
 熱気とともに湿った風が八雲の頬を叩く。奥から聞こえてくるのは、唸るような水の音だ。それは畏敬の念を覚えるほど強く激しく――

「ここは……?」

 気圧されている自分を自覚して、声を振り絞る。

「いけませんね。答えの分かっている質問で安心を得ようとするのは、ズルっこですよ」

 言葉とは裏腹に穏やかな声で、時雨が答えた。

「かつての温泉宿ではバルブ調整を行う人は湯守と呼ばれ、非常に尊敬されたそうです。『熱い海』の荒ぶる力を鎮め人々に分け与えた高僧と同じ役割、というわけだ」

 時雨は奥へ歩いていく。コンクリで打ちっぱなしの床に、足袋を履いた彼の足音が響く。するすると、するすると。その先にあった薄暗い階段を下りていくと、太いパイプが血管のように入り組んだ機械室になっていた。壁一面にはハンドルが配置されている――それがバルブなのだろう。
 塗装はすっかり剥げて錆びた金属の色をそのまま晒していたが、執拗に磨き上げられているのも見て取れた。







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