◇◇◇

 秋の陽が落ちるのは早い。
 窓から差し込む西日が館内を赤く染め上げている。磨き込まれた柱に、高い天井を支える太い梁。古いが、どこも丁寧に掃き清められて清潔感がある。そのさまがいっそう人のいない空間に寒々しさを与えているのだった。
 事件の影響だろうか、ロビーには客どころか従業員の姿もない。本来なら設えられた椅子に湯上りの客が腰を下ろし、飲み物を片手に談笑でも交わしている時間帯のはずだ。
(別に、悪いことをしてるわけじゃないんだけど)
 なんとなく後ろめたさを感じながら、八雲はそれを探す。黒光りする受付カウンターの奥には、いくつかの掲示物が飾られている。旅館の沿革史。女将のものであろう写真。何枚かの表彰状。そして――

「あ、これだ」

 温泉の成分分析表。額縁は古いが、アクリル板は何度か取り換えられているのだろう。劣化による曇りもない。
 ――周囲のものは次第に変化していくのに、それだけはいつまで経っても変わらずに新品同様のまま。
 そのことになんとなく薄ら寒いものを感じつつ、八雲は視線を走らせた。源泉名、湧出地、主な効能、そして泉温。食い入るように見つめていたせいだろうか。人の気配に気づかなかったのは。

「お嬢さん、温泉に興味がおありですか?」

 心臓が口から飛び出しそうなほど驚いていた――一方で八雲はいつもどおり冷静だった。たとえばホラー映画なら誰かが背後から声をかけてくるタイミングだと、どこかで予感していたからかもしれない。
 一秒。二秒。
 悲鳴を呑み込んで平静を装うのに必要な時間は、そんなものだった。ぎりぎり無表情の方が勝る愛想笑いを作って振り返る。背後には、上品な身なりの老人がひとり立っていた。長身で筋肉質な体躯はいかにも海の男を思わせる。白髪と顔に刻まれた皺だけが、彼の老いを表すものだった。

「どんな効能があったのかなって。入れなかったから」
「入れなかった……ああ、第一発見者の」

 老人のぽかんとした表情が、すぐ苦笑に変わった。

「申し訳ございません。うちの者が、お客様にご迷惑を」
「あ、いや、こちらこそすみません。考えてみたらすごく無神経な言い方でした。人がひとり亡くなっているのに」

 相手の反応を見るつもりで続ける。それに対しても彼は曖昧な笑みのまま「いえ――」と、返事を濁した。

「ところで、効能の話ですが」
「あ、はい」

 突然話が戻ったため反応が少し遅れた。
 正直なところ効能の話は建前で、どうでもいいのだが。
(……この人の話、もう少し聞いた方がいいかな)
 彼がこの旅館でどういった立ち位置にいる人物なのか、見極めておいた方がいいかもしれない。そう思い直して、八雲は小さく相槌を打った。男が続けてくる。

「当館の湯は、ただ体を温めるだけのものではありません。古くから『不浄を焼き、命を磨き直す』と言い伝えられてきました」
「不浄を焼く?」
「熱海の由来をご存じですか?」
「いいえ」

 八雲は短く答え先を促した。もっとも、そうするまでもなく彼は語り始めていただろうが。

「かつてこの地では地面が鳴動し、沸騰した海水が空高く吹き出していました。文字通り『熱い海』というわけです。その荒ぶる力を鎮め人々に分け与えるため、名のある高僧が神に祈りをささげたという伝説があります。それがここ、熱海のはじまり。湯前神社の起こりと言われております」

 それこそ絶え間なく湧き出る湯のごとく淀みない言葉で語り、八雲をじっと見つめてくる。その瞳は静かな声とは裏腹に、奇妙な熱を孕んでいるように感じた。
 ――まるで恋人に愛を語らっているような。
 いや。

「ですからわたくしどもも、湯の神には常に敬意を払っております。湯の神はわたくしどもの真心に応え客を癒す――そうして、この旅館を盛り立ててきたのです」

 狂信者の熱だった。男の勢いに気圧されるように、八雲は一歩後退った。きっちり同じ分だけ男が前に踏み出す。

「お嬢さん。あなたは先程、ご自分のことを無神経だとおっしゃいましたね。支配人という立場上、それについてわたくしはなにも申し上げることができませんが……」

 彼が言葉を切る。
 その視線が一度だけ、額縁に入った成分分析表を撫でた。

「亡くなった若旦那様は、どうにも即物的なお方でした。女将やわたくしどもの愛するこの旅館を、ビジネスの道具と考えておられたようです。そこに宿るものに目を向けず、すべてを効率化するとおっしゃっていた。それは、きっと怒りを買う行為だったのだと思います」
「誰の?」

 訊ねる八雲に、支配人を名乗った男は答えた。
 きょとんと不思議そうな顔で。

「湯前神社の神に他に、誰がいらっしゃいましょうか」

 そこが限界だった。

「あ、ありがとうございました!」

 叫ぶように感謝の言葉を投げつけ、八雲は駆けだした。背中に視線を感じる。熱に浮かされたような男の視線を。
(やば。話が通じない相手だ。あれ)
 ぞっとしながら慌てて廊下の角を曲がったところで――







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