人がひとり死んだ。
 たったそれだけのことだが、温泉地での休暇を非日常へ変貌させるには十分だった。特に従業員の動揺は大きい。旅館経営に携わってきた支配人から、客の世話をする仲居たち、果ては送迎担当の車両スタッフまで。
 彼らの嘆きと驚き、そして恐怖が波紋のように広がり、空気をざわつかせている。それもそのはずである。
 なにせ、事件の被害者は――

「被害者は、鶴ノ湯亭の若旦那。鶴島光太郎、四十二歳。死因は……まあ溺死でしょう。自分は事故死と考えますが警視庁のお二人は?」

 どこかドーベルマンを思わせる男だった。
 短い黒髪を後ろへ撫でつけ、厳しい面持ちで山吹と時雨を見据えている。敵意があるわけではなさそうだが。
(千晴君が嫌いな手合いですね)
 時雨は胸のうちで呟いた。
 そう結論づけるまでに、時間は然程かかっていない。
 およそ三十分前――

「お疲れ様です」

 露天風呂へ続く渡り廊下に現れたのは、スーツ姿の男だった。年の頃は山吹と同じくらいだろうか。

「沼津署の狛江です。状況を伺えますか?」

 通報をしたのは時雨だ。
 ここは都内ではなく、熱海――つまり静岡県警の管轄になる。それに加えて第一発見者は未成年の八雲。面倒でも正式記録のために所轄を呼ぶ必要があった。

「どうも。我々は警視庁の時雨、こちらは山吹と申します。身内の子供を連れての休暇中でしてね」

 時雨はそう言って一度言葉を切った。
 八雲の方をちらと見る。目が合うと、彼女は心得た顔で狛江に向かって軽く頭を下げてみせた。狛江の方は彼女をしばらく胡乱な視線で眺めていたが、すぐに自らの使命を思い出したのだろう。ひとつ咳払いをして、続けた。

「なるほど。発見者は」
「わたしです」

 と、八雲が答える。

「ここに着いて最初に、二人と別れて露天風呂へきました。ちょうど女湯の時間だって言われて。それで湯船の中に入ったら人影が見えたので、近づいたんですけど……あ、お風呂への沈み方が変だったから。具合が悪いのかなって思ったら、あんな……」

 彼女にしては稚拙な言い回しだった。妙に子供っぽさを意識している。そのことに気づいて、時雨は苦笑した。
(そういえば、彼女は演技派でしたね)
 出会ったときのことを思い出す。
 あの日も八雲は大事な叔父を守るため「不審者に尾行されている」と嘘を吐いて捜査中の時雨たちに接触してきた。それが嘘だとばれるや、今度は癇癪を起こしたふりで二人の興味を引いて――
 時雨と山吹――正確には山吹と、か。ともかく彼と出会うまで叔父以外の味方がいなかった彼女は、基本的に他人を警戒している。淡泊そうな見た目からは想像もできないほど周囲をよく見ているし、頭の回転も速い。度胸もある。
 経営者として成功している叔父譲りなのか、生来の素質か。
 やや犯罪者向き――それも時雨と山吹が対峙する知能犯向きの性質だ、と時雨は思うことがある。あの事件でもし叔父の名誉が損なわれていたら、あるいは信頼できる他人と出会っていなかったら、そういう未来もあったかもしれない。
 狛江は少女の演技にあっさり騙されたようだ。

「ゆっくりで大丈夫ですから」

 やや声色を柔らかくして、そう言った。
 胸の前で握りしめた手を震わせる八雲が、死体の様子を思い出して怖がっているように見えたのだろう。一方の山吹はそんな二人に背中を向けて、肩を震わせている。不意打ちすぎて笑いをこらえきれなかったようだ。

「……びっくりして、わたし。お風呂から逃げて、夢中で男湯に向かいました。あとは、ち――山吹さんと時雨さんが全部やってくれたので、よく分かりません」
「なるほど」

 それから彼は、旅館の従業員たちにも同じように簡単な聞き取りをした。横では――後輩だろうか――彼よりもう少し若そうな青年が、熱心にメモを取っていた。
 そうして、例の問いかけに戻る。

「ん〜、事故死か?」

 訊き返したのは、つい先程まで笑っていた山吹だ。唇の端をまだひくつかせながら、挑発的に訊ねる。

「オレは殺人だと思うけどな」
「……可能性は否定できませんが、状況確認が済むまでは穏当な線から当たっていくべきかと思います」

 狛江が生真面目に言い返した。山吹の横やりに気を悪くしたというよりは、単純に方針が違うのだろう。
 山吹の方も、それ以上突っかかったりはしなかった。

「沼津署のやり方は理解した。警視庁だからって、管轄外から捜査方針に口出ししたりはしねえよ。オレたちは」
「ええ。しかし、我々は第一発見者の保護者という立場もあります。彼女とともに、この場に残りますよ」

 これは、それほど不自然な申し出ではなかったはずだ。実際、狛江も難色を示すことなく頷いた。

「ええ。むしろ、参考人として改めてお聞きしたいことも出てくるかと思いますのでお願いします」

 彼女も精神的ショックを受けているでしょうから――と、彼は八雲にも視線を向けた。その目は優しい。大人が子供を見守る目だ。
(ああ、やはり)
 と、時雨は内心苦笑する。
 狛江は典型的な市民の味方に違いない。
 近寄りがたい雰囲気はあるものの、いたって品行方正。人の罪より事故を先に疑い、立場の弱い子供を気に掛ける。だからこそ――

「お気遣いどーも」

 狛江の視線から遮るように、山吹が二人の間に割って入った。勿論、嫉妬ではない。単純に気に入らないのだ。そうでなければ、珍しく警戒しているのかもしれない。

「生憎、子供のあやし方はよく心得てる。心配してもらうまでもねえよ。なあ、八雲?」

 肩越しに八雲を振り返り、山吹はニィッと笑った。
(これでは、どちらが敵役か分かりませんね)
 時雨は密かに嘆息する。
 とはいえ、だ。客観的視点から憂えたところでまったく意味がないことも分かっていた。当の八雲は琥珀色の瞳をきらきらと輝かせ、まっすぐに山吹を見上げている。

「うん。わたし、大丈夫。ち――山吹さんがいるなら」

 感情の薄い彼女が、山吹にだけ見せる顔だ。日頃のポーカーフェイスもあっさり投げ捨て、このときばかりは呆れるほど分かりやすくなる。

「そうですか。それなら、よかった」

 彼らのいびつな関係を知らない狛江だけが、まるっきり善人の反応を残して踵を返していった。彼と来ていた沼津署の刑事たちも一礼とともに後に続いていく。
 山吹は八雲の頭を上機嫌に撫でまわしていたが、彼らの姿が見えなくなると不意に悪い顔つきになった。

「さて、相棒。オレたちも捜査するぞ」
「おや、千晴君。捜査方針に口出しはしないのでは?」

 時雨も少し目元を微笑ませた。

「オレたちは、な」

 そう答える山吹の視線は八雲に注がれている。狛江とは違う。そこに子供を慈しむ感情はない。山吹は少女を信頼する大人として、この悪戯に巻き込むつもりだ。

「そういうわけで、出番だぞ。八雲」

 八雲の肩をぽんと叩く。
 託された少女の顔にも、先程までの幼さはない。作られた恐怖や不安も一切ない。言葉足らずな山吹の一言で、もう自分がやるべきことを理解している――瞳には決意がある。

「わたし、ワトソンをやればいいの?」
「いいえ。君がホームズもやるんですよ。我々は、強いて言うならアーサー・コナン・ドイルか」
「全部分かってるってことだね」

 時雨の冗談に肩を竦めると、八雲は「あ」と声を上げた。

「探偵役はやるけど、わたしからもひとつお願い。いい?」
「なんだよ。もうご褒美の話か?」

 山吹の揶揄に、彼女がかぶりを振る。真顔で――

「違う。猛晴くんへの連絡。泊まりになるなら、しないと」

 それはもしかしたら、事件を解決するよりも余程厄介な問題なのかもしれなかった。







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