◇◇◇

「熱海プリンでも食いに行くか」

 ある日の夕方だった。
 窓から差し込む赤い夕陽が、テーブルの上の白いカップをオレンジ色に染めていた。店内に流れるゆったりとしたジャズが心地良い。他に客の姿はなく、まるで世界にふたりだけ切り取られたような錯覚に陥る。
 時折山吹が誘ってくれる、この放課後のひと時が八雲はたまらなく好きだった。この時間が過ぎ去ってしまうのを惜しむように、甘ったるいカフェオレを少しずつ少しずつ飲みながら、彼の顔をちらりと盗み見る。
 愛嬌のある三白眼が夕焼けの赤を捉えて細くなる、そのさまにいつだって目を奪われて――

「え?」

 不意の提案に、反応が遅れた。

「熱海プリン?」

 なにそれと訊き返す八雲に、山吹が身を乗り出してくる。
 視界に入ってくる携帯電話の液晶画面より、触れそうな額の方が気になってしまうが――そこには牛乳瓶型の容器に入ったレトロな風合いのプリンが映っていた。

「これ食べに行くの? 時雨さんと?」
「そ。あと、日帰り温泉もな。息抜きには丁度いいだろ」

 尖った歯を見せて笑う山吹に、ふたつ返事で行きたいと答えた。それが八雲にとっての、事の始まりだったのだ。

 秋晴れの空は高く青い。
 冬の気配をわずかに含む風が、優しく頬を撫でていく。
 都内からおよそ五十分を山吹の運転で移動して、たどり着いたのはビーチから少し離れた高台の旅館だ。
 入り口には〈鶴ノ湯亭〉の看板に「日帰り温泉、食事あり」と書き添えられている。老舗旅館の名にふさわしく歴史を感じさせる上品な佇まいだが、平日ということもあってか客足は少ないようだ。
 少し見渡してほかの客がいないことを認めると、山吹が遠慮もせずに「貸し切りだな」と言って笑った。
 彼を咎めるでもなく、時雨も後に続いていく。
 旅館の従業員はそんな二人に苦笑いで「近頃女将が亡くなり、経営方針が変わりまして……」と零していたが。すぐに客に話すことではないと思い直したのか、かぶりを振って歩き出した。

「お部屋へご案内させていただきます」

 よく磨かれた板張りの廊下を奥へ進む。通路は縁側になっていて、庭にも降りられるようだ。白い砂利を基調とした日本造りが美しい。八雲が立ち止まって物珍しそうに眺めていると、山吹も振り返ってきた。足音がひとりぶん減ったことを不審に思ったのだろうが――彼のそういう鋭さが、八雲は好きである。

「どうした、お子様。よそ見してると置いてくぞ」

 台詞とは裏腹に足を止めてくれている。
 ――そういうところだよ、千晴くん。
 声には出さずに胸のうちで呟いて、

「待って、今行く」

 足早に追いかける。山吹を追い越して先頭を歩いていた時雨が、前を向いたまま愉快そうに少しだけ肩を揺らした気がした。

「こちらになります」

 従業員がそう言ってドアのひとつを開けたのは、それからいくらも行かないうちである。日帰り客のための部屋なのだろう。庭に面した広縁こそ設えられているがこぢんまりとして、大人ふたり子供ひとり過ごすにはやや狭い印象がある。

「当館には大浴場がふたつ、露天風呂がひとつ――男性と女性、時間での入れ替わり制となっております。ただ今の時間は、ちょうど女性の時間に切り替わったところになりますね」

 三人分の浴衣を畳の上に置くと、従業員が説明した。

「お、良かったじゃねーか。八雲、オマエ行ってこいよ」
「どうせ、我々と一緒には入れませんからね」

 山吹の言葉に、時雨も付け加えてくる。そんなふたりの勧めに押される形で、八雲は躊躇しつつも頷いた――うん。







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