とはいえ。

「……今頃千晴くんも、お風呂に入ってるのかな」

 冷えた風に、湯の熱さが心地良い。洗い場で体を流し、濡れた髪を掻き上げる。そっと息をつきながら考えるのは、やはり山吹のことだった――ひとり。そう、ひとりだ。大浴場では山吹と時雨がふたり、いつもの調子で温泉を満喫しているのだろう。こういうとき、大人と子供以上に越えがたい性差の壁を感じて寂しくなる。
(ちょっと、弱くなったな。わたし)
 声には出さず、八雲はひとりごちた。
 以前なら、きっとなにも感じなかった。そういうものとして受け入れていた。叔父とふたりきりの生活では、彼がただそこにいるだけでよかったからだ。それ以上を望んでなにもかもを失うことが、なによりも恐ろしかった。
 今は、どうだろう――
 弱くなった理由を考えると、なんとなく気恥ずかしくなってしまった。ぱんと両手を叩いて、空気を変える。

「そうだ。猛晴くんにもお土産にプリン買ってってあげよ」

 もちろん、そんな独り言を聞く者も他にはいないが。
 それで気を取り直して八雲は立ち上がった。湯船から湯が絶えずあふれ出ているために、露天風呂へ続く石畳は暖かい。
 ――湯けむりが、濃い。
 旅情を感じるというよりは、少しひやりとするほどだ。一歩先に足場があるか確かめながら進むと、やがて足裏に伝わる感触が変わった。重ね固められた花崗岩が、風呂の縁を作っている。
 それだけではない。白いものが、やけに目についた。
(泡……?)
 目を凝らしてみると、疑問はすぐ否定に変わった。泡にしては沈まない。すぐに消えるでもなく、いつまでもそこに漂っている。

「なんか、多いな。温泉って、こういうものだっけ?」

 訊ねたところで答えてくれる人はいない。記憶を探ってみたところで、判断できるほどの経験もない。

「あとで旅館の人にでも聞いてみよ。今はお風呂……」

 そっと屈みこんで手で探れば、指先に熱めの湯が触れた。爪先からゆっくり腰辺りまで中へ進む――と。
 八雲の生み出した波紋が、そう遠くないところでなにか別のものにぶつかり戻ってきた。そんな感覚があった。露天風呂の対岸よりも、もう少し手前だ。訝りつつも、湯けむりの中にじっと目を凝らす。ちょうど向かいだ。数メートル先に、誰かがいる。先客だろうか。

「あの……大丈夫ですか?」

 そう声を掛けたのは、相手の様子がおかしかったからだ。
 浮いている。咄嗟に思いついたのは、行儀悪く仰向けに空を見上げている――ということだったが。
 そうだとしてもバランスがおかしい。
 躊躇しつつも近づくと、次第に輪郭が見えてくる。

「え……」

 それは、顔を湯につけてうつぶせに浮いている人だった。
 体はぴくりとも動かない。けれど髪だけがまるで意思を持つ水草のように、ゆらゆらと白い水面を揺蕩っていた。
 硫黄の匂いが、つんと鼻につく。

「ちょっと……しっかりしてください!」

 湯をざぶざぶ掻き分けながら、八雲は慌てて近寄った。掴んだ肩は妙に骨ばって固い。男だ。どうして。ぎょっとしつつも仰向けに返すと、動揺に心臓が縮こまった。男は白目を剥いている。いや。瞳の中が白く濁っている。それはまるで生気のない、ガラス細工のようだった。反面、熱を帯びた肌は不自然なまでに赤らんでいるのだ。まるで茹でられた蛸のように。こんなものを見てしまったらしばらく蛸は食べられない。いや、そんなことを気にしている場合でもない。

「し、死んでる」

 死んだ人間を見て、本当に「し、死んでる」なんて言うことあるんだ――どこか冷静にそう思いつつ。あるいは、混乱していたのかもしれない。ともかく八雲は次の瞬間、悲鳴混じりで叫んだのだった。

「千晴くん、千晴くん、大変……!」







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